小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

746 質素でシンプルな生活を求める 熊本の小泉八雲

画像日本に住んだ外国人で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)ほど日本人に愛された人はいないのではないか。日本に帰化したのだから彼自身も日本が気に入ったのだろう。先月、熊本を旅した際、熊本市内に残っている小泉八雲夏目漱石の旧宅を見る機会があった。2人の間には交流はなかったというが、なぜか不思議な縁で結ばれていることを知った。 八雲といえば松江だが、1年少ししかいなかった松江よりも熊本の生活の方が長い。八雲は1891年(明治24)11月から旧制五高(現在の熊本大学)の英語教師として約3年熊本で生活した。当時の熊本の街は西南戦争の焼け跡から復興し、急速に西洋化されつつあった時代だ。 八雲が熊本を去ったあと、同じ五高の英語教師になったのが夏目漱石だ。漱石は松山から1896年4月熊本に移り、4年3カ月の教師生活を送りイギリス留学のため熊本を離れる。八雲は神戸の英字新聞の論説の仕事を経て96年から東京帝大の英文学講師として再び教壇に立つ。1903年に東京帝大を解職になるが、その後任がイギリス帰りの漱石だった。 八雲は学生に人気があり、解職が決まると学生から留任運動が起きたという。そんな事情を漱石も承知していたようで、夫人に「小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪として世界に響いた偉い方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものがその後釜にすわったところで、とうてい立派な講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない」と語ったそうだ。それは自分が八雲を追い出したかのように受け取られるのがいやだという思いがあったのかもしれない。 熊本の八雲邸(最初の1年間だけ住んだ家)はもともと手取本町にあったものが市内の中心部(安政町)に移された。一方、漱石は熊本から英国に留学するまでの5年間で6回の転居をするという引っ越し魔で、内坪井町の5度目の家が記念館として保存されている。
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八雲は、五高の職員、学生の前で「東洋の将来」と題して講演したことがあるが、熊本大学の構内にはこの講演の中で語った言葉が英文碑になり残っている。 The future of greatness of Japan will depend on the preservation of that Kyushu or Kumamoto spirit, the love of what is plain and good and simple, and the hatred of useless luxury and extravagance in life. (Lafcadio Hearn, January 27,1894) (日本が将来、偉大になれるかどうかは九州魂あるいは熊本魂、即ち質素で純良、シンプルなるものを愛し、生活上無知な奢侈、贅沢を憎む心を保持することの如何にかかっている) バブルに踊り、その後遺症に苦しむ一世紀後の日本の姿を予言したかのような指摘ではないか。