小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

635 村上春樹のだまし方 「1Q84年」の不可解さ

画像 東京新聞の夕刊文化欄に「大波小波」というコラムがある。前身の「都新聞」時代から続く名物コラムといわれ、匿名で鋭い批評を載せている。 先日、このコラムに目を通した私は「村上春樹にだまされた」と思った。意味深な間違い」と題するコラムは、売れに売れている「1Q84・BOOK3」の中に出てくるスイスの心理学者、カール・ユングの記述に関し「気になる間違いを見つけた」というのだ。 BOOK3は、前作では死んだことになっている「青豆」という主人公の一人が、実は生きており、もう一人の主人公の天吾と再会し、現実の世界へ戻ったところで終わる。メフィストという仮名のコラム氏は、この青豆を追う「牛河」という男を、青豆の保護者である老婦人の用心棒・タマルが急襲して殺害する場面について疑問を投げかけるのだ。 タマルは牛河に対し「カール・ユングを知っているか」と言いながら、ユングについて説明する。ユングがスイス・チューリッヒ湖畔のボーリンゲンに建てた「塔」といわれる家の入り口には「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」という文字がユング自身によって刻まれた石があると、タマルは言う。 しかし、コラムによると、事実は違うというのだ。塔の方に刻まれたのは「フィレモンの聖域―ファストの贖罪」という言葉だった。ユングが家族と暮らしたキュスナハトの家の扉には「冷たくても・・・」とやや似ている「呼ばれても、呼ばれなくても 神はいる」という言葉があるそうだ。ユングを知る人ならこれは常識らしい。 コラム氏は「『冷たくても、冷たくなくても』などという表現は、ラテン語の原文から出てきようがない。こんなミスをユング派の村上春樹がなぜ犯すのか。考えうるのは、これが異世界1Q84』のユングとして、故意に歪められているということだ。もしそうだとしたら、つくづく彼は食えない作家だ」と結んでいる。 私が目を通した限り、文芸評論家あるいは新聞の文化・学芸部の記者たちの「1Q84」に対する書評は好意的だ。次のノーベル文学賞の候補は日本では村上春樹ぐらいといわれるし、衰え続ける「活字文化」を支えている有力作家でもある。好意的書評は、そんな背景があるのだろうか。 このコラム氏の指摘が正しければ村上春樹は読者をひっかけようとしたのかもしれない。あるいは甘く見たのか。しかし、ユングという実在の人物について記述する以上、作り話はなじまないと思う。村上春樹という当代を代表する作家の作品に出てくるのだから、この言葉はそのままユングの言葉として定着してしまう恐れがある。 私はユングのことはほとんど知らない。コラムが正確なのか、村上春樹の表現の方が正しいのかよく分からないが、作り話にしてもタマルが牛河を殺害するシーンの言葉としてはうまくできている。こんな哲学的表現をする用心棒・殺し屋もいるのかと思う。これが村上春樹の世界なのかもしれない。 (以下は、昨年村上があるインタビューで、答えた記事。これを読むと、ユングの言葉として、別のものを入れ替えた理由が理解できるのだが) ―実際、僕の仕事は嘘をつくことなんです。現実に色を添えること、想像豊かであること、人を楽しませること。もしかしたらそれは僕の人格の一 部かもしれません。  現実を別の形で表現すること。フィクションは"大いなる嘘"です。そのことを忘れてはなりません。小説を書くとき、僕はできるだけ上手に嘘 をつかなくてはならない。"偽のレンガで真実の壁を築くこと"、それが僕の仕事です。―