小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

607 これも人間の世界 全体主義国家を描いたオーウェルの一九八四年

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村上春樹の「1Q84」が爆発的に売れたのは、昨年の6月ごろだった。変わった本の名前だが、一説によると、英国の作家、ジョージ・オーウェルの「一九八四年」という作品をもじって付けたのだという。 村上の小説が出てから間もない7月に本家の方も早川文庫から高橋和久訳の新訳版として出版された。付録や解説を除いて463ページ。難解な内容に手こずり、読み終えるのに1週間を要した。 オーウェルがこの小説を書いたのは、1948年のことで、実は作品の題名は48を逆にしたのだという。主人公はウィンストン・ スミスという男で、全体主義国家の真理省記録局に勤務し、歴史の改ざんを業務にしている。 彼は何でも服従の体制に疑問を感じている。ジュリアという美しく奔放な女性と人目を避けて恋愛関係を続ける。そして、反政府地下活動へと走ろうとするが、それを導いた男は、反体制派を装った全体主義国家の体制派だった。その結果、スミスとジュリアの前には厳しい試練が待ち受ける。 全体主義国家は、近代でいえばヒットラー・ドイツであり、かつての日本もそうだった。ソ連もしかり中国も北朝鮮もその範疇に入る。ソ連は解体しロシアになり、中国もだいぶ変わった。しかし、北朝鮮オーウェルが描く世界とあまり差はないのではないか。かの国には「自由」という概念がないのである。 陰鬱という表現が適切と思えるほど、内容は暗くて救いがない。しかし、オーウェルはこれも人間の世界だというのだろう。 トマス・ピンチョンの解説によれば、オーウェルは自分の息子の世代の将来を想像し、警告こそすれ現実となることは決して望ましくない世界を、一九八四年という作品で描いたのではないかと推測できるという。オーウェルは予測される不可避の情況にいら立ちを感じる一方で、その気になれば変革をもたらす能力を普通の人々が持っていることを、一貫して信じていたともいう。 とすれば、オーウェルはスミスを通じて「絶望という深くて高い壁があってもそれを克服する能力が人間にあるのだ」と、私たちに語りかけているのかもしれない。