小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

537 高度成長とともに 戦後を体現した大鵬さん

相撲界で大横綱、名横綱といわれる人は何人か思い浮かべることができる。その中でも「大鵬」というスケールの大きな名前は、私だけでなく多くの相撲ファンの心に残っているはずだ。その元横綱大鵬さんの納谷幸喜さん(69)が文化功労賞を受賞する。

すずやかな顔立ちの大鵬さんは、負けない横綱だった。攻められ、技をしかけられても倒れずに土俵に残っている。いつか相手は土俵を割っているか倒れている。ふんわりとしていて、力強さは感じない不思議な横綱だった。

大鵬さんの全盛期、プロ野球では巨人が長嶋、王を擁して常勝を誇っていた。経済の高度成長が始まっていても、日本人の食生活はまだ貧しい時代だった。卵焼きが定番の料理として家庭の食卓を飾っていた。

1961年、作家の堺屋太一が書いた「巨人、大鵬、卵焼き」が流行語になった。巨人と大鵬は勝つのが当たり前であり、卵焼きも毎日のように食卓に上る。日本は「60年安保闘争」が一段落し、64年の東京五輪を目指して経済の高度成長が一気に加速する。

大鵬さんの全盛期、まだカラーテレビは普及せず、白黒テレビの時代だった。アナウンサーは「大鵬の白い体が次第に紅潮してきました」と、よく実況していた。天性の大きくて柔らかい体に、稽古熱心さが加わり、大鵬さんには柏戸という一直線に相撲をとる横綱以外にライバルは存在しなかった。

大鵬さんは北海道の弟子屈町川湯温泉で育った。父親がウクライナ、母親が日本人のハーフだ。色の白さや体の大きさは父親のDNAを受け継いだのだろう。川湯温泉には相撲記念館があり、その前庭には大鵬さんの横綱姿の記念碑がある。川湯には2回行ったことがあり、大鵬さんの子ども時代に思いを馳せながら町を歩いたことを思い出す。

大鵬さんの全盛時代、相撲は野球とともに日本では人気スポーツだった。いま、相撲界はかつてほど国民にアピールする元気はない。近い将来、日本人の横綱が誕生する可能性は薄く、サッカーに熱を上げる若者の興味の対象から外れているのだ。

「巨人、大鵬、卵焼き」のうち、巨人はセリーグで優勝し、何とか気を吐いている。卵焼きは、いまもあきることのない簡単な料理としてがんばっている。残る相撲はやや寂しい。だからこそ、大鵬さんの文化功労賞受賞をきっかけに、相撲人気が復活することを祈りたいと思うのだ。

ところで、野球の歴史を書いた「ベースボールの夢」(内田隆三著、岩波新書)を読んだ。この中で、内田は松坂大輔投手のレッドソックスへの移籍の際、1億ドルという金が動いたことに触れ「移籍は資本主義的な市場の論理の結果だ。選手のプレーが良質な商品の一つであり、マネーと交換できるなら、必要に応じて国境を超えていくのがグローバルリズムの意味だ」と書いている。

画像それを深く読めば、米国流の行きすぎた市場原理に左右される野球は、世界的には普及が難しい。だから、次回のロンドン五輪の種目から外れてしまったのだろう。時代は刻々と変化をしているのである。