小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

471 東京五輪の恩人 日系人和田勇の生涯

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知人が勤務先を退職し、近く米国ロサンゼルスに行くという。ロスには「東京オリンピック開催の恩人」といわれた日系人が住んでいた。野菜や果物を扱う食品ストア十数店を営みながら、東京五輪開催を全力で応援したフレッド・和田勇である。 和田の伝記「祖国へ、熱き心を」(高杉良)を読んだ。これだけ、日本のスポーツ界に影響を与えた人物なのに、私はほとんど知らなかった。和田の生涯はすがすがしい。いま、元気のない経済界に和田のような人物の存在が必要だと考えた。 和田は1907年9月にカナダ国境に近いワシントン州ベリングハムで生まれた。両親が和歌山県出身で貧しい少年時代送った和田は12歳から働き始め、20歳でオークランドに食品の小売店を開いた。それが大きく発展する。太平洋戦争が始まると、多くの日系人は収容所に連行されるが、彼は収容所生活を拒否し、ユタ州への集団移住を決行する。移住は失敗に終わるが、和田はめげない。戦後ロスで成功した和田は、1949年の全米水泳選手権に日本選手が出場した際、自宅に選手一行を泊め、親身になって世話をする。 その結果、有名な「フジヤマのトビオウ」伝説が生まれる。古橋である。戦後の混乱で日本人はきょう食べるにも困っていた時代、全米選手権に出た古橋や橋爪や浜口が大活躍し、古橋は1500メートル(18分19秒)をはじめ、出場した種目で世界新記録を連発する。敗戦でうちひしがれていた日本国民は驚喜した。新聞は号外を発表したという。 これが縁で和田は、日本人選手が米国に遠征するたびに世話をする。著名なスポーツ選手のほとんどが彼の厄介になった。さらに、復興著しい日本は東京でのオリンピックを計画した。その招致運動の一角を担ったのが和田だった。 正子夫人とともに、40日もかけて和田は南米各国を回り、オリンピック開催を決めるIOC総会で、東京に票に投じるよう説得する。その結果、東京で第18回大会が開催されたのは周知の事実である。 和田は快男児である。その和田を支える正子夫との二人三脚ぶりは、この本の随所に出ている。うらやましいくらいの夫婦である。いま、東京は2016年の第31回大会の招致のための運動を展開している。和田が活躍した当時ともちろん時代背景は変わっている。だが、人間の心に変化はないはずだ。 和田のような相手に飛び込む招致運動ができる日本人、あるいは日系人はいるのだろうか。東京五輪は、日本の高度経済成長の起爆剤になった。次の五輪は「成熟した東京を世界にアピールし、世界の平和に貢献し、環境へ配慮したコンパクトな五輪を目指している」そうだ。それが、世界にどう理解されるかどうかは分からない。 知人が行くロスには、若い友人が暮らしている。スケールの大きなジャーナリストだ。和田の後を追って若い世代が活躍するはずだ。