小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

461 センチメンタルジャーニーsendai 35年は幻の如し

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かつて仙台に住んだことがある。1973年(昭和48年)8月から1975年(同50年)6月までの短い期間だ。 正確にいうと勤務した場所が仙台市で、住まいは合併前の泉市(現在は仙台市泉区)だった。その後、仙台には何度か行っているが、かつて住んだところにまでは行く機会がなかった。それが偶然にも今回実現した。人はそれを「センチメンタルジャーニー」(感傷旅行)というらしい。 この言葉は、英国の作家スターンの紀行文の題名「A Sentimental Journey through France and Italy」(1768年)が由来だという。日本では田辺聖子が「感傷旅行」(センチメンタル・ジャーニィ)で芥川賞を受賞しており、ノスタルジア(郷愁)とともに心に響く言葉である。 それはさておき、私が当時住んだのは泉に新しくできたばかりの住宅公団(現在の都市再生機構)の団地だった。小高い丘にある原野を切り開いて建てられた住宅団地は当然だが、環境がよかった。緑が多くて空気はきれいだった。 近くには将監沼という農業用の貯水池があり、夏になるとヒキガエル(ガマガエル)の鳴き声が「モウモウ」と、牛が鳴いているように夜通し響いたのが難点といえば難点だった。 現在、仙台は地下鉄が通っている。北の終点の泉中央で降りる。団地までは駅から歩いて10数分だ。途中、道の右側には高い金網が張られた将監沼があった。いま、あのうるさいカエルが活躍しているかどうかは知らない。靄がかかっていて、スキー場がある近郊の泉ヶ岳は見えない。上りの道をのんびりと歩く。 間もなく団地に到着した。道を挟んで左が第2、右が第1団地。5階建ての白い建物が並んでいる。私が住んだのはたしか右の方だった。しかも、棟の前には子どもたちの遊び場があった。目指す棟はすぐに見つかった。 砂場で子どもたちが遊んでいる。周囲でお母さんたちがおしゃべりをしている。広場では男の子たちがキャッチボールをしている。それは、35年前の光景とそう変わらない。 4階のベランダから、砂場で遊ぶ娘やそれを見守る妻の姿をぼんやりと見ていたことを思い出した。当時、幼い娘はたまに買って帰るポッキーが大好きで、ポッキーは彼女が覚えた言葉の中でも早い方だった。仙台は寿司もおいしい。給料日には、職場の同僚と一緒にNHK仙台放送局裏にあったすし屋で折り詰めのすしを買って帰るのが恒例だった。 「若かったなあ。それにしてもいい時代だった」と思いながら歩いている途中、冷えが体に伝わってきた。地元の人は「やませですよ」という。いまの季節、東北の太平洋側に冷たく湿った東風が吹き付けることがあり、これがやませといわれ、冷害の原因にもなった。 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にも「サムサノナツハオロオロアルキ」と出てくるのがやませなのだろう。だが、歩いてほてった体にはほどよい冷えである。泉中央の駅では、仕事から帰る人々が次々に電車から降りる。中心部に向かうのは私を含めわずかだ。ゆったりと座席に座り、35年は幻だと思いながら目をつむった。
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