小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

359 不思議な村上春樹の世界 ありそうでなさそうな「東京奇譚集」

画像
ノンフィクションの沢木耕太郎と純文学の村上春樹を比較するのは、両者に失礼かもしれない。年代的には2人とも団塊の世代(沢木1947年11月29日生まれ、村上1949年1月12日生まれ)である。 デビューは沢木の方が早い。ノンフィクションとフィクションの違いはあっても、なぜか気になる作家なのである。沢木の本では最近「凍」を読み、その取材の徹底ぶりを十分にたん能した。次いで、村上の本も読んだ。5編の短編から成る「東京奇譚集」だった。人間世界の不思議さを感じながら、短編の面白さを再認識した。 孤独なゲイのピアノ調律師(偶然の旅人)、ハワイでサーファーの息子を亡くした母(ハナレイ・ベイ)、ボランティアで人探しを請け負う男(どこであれそれが見つかりそうな場所で)、なぞの職業の女性と知り合う作家(日々移動する腎臓のかたちをした石)、自分の名前を忘れたOL(品川猿)を主人公にした5編を読む。猿が名札を盗み、人と話をするという「品川猿」が奇譚集的で、気に入った。 中学時代から寮生活を送ったこのOLは、時々自分の名前を忘れるようになる。品川区がやっている区民向けのカウンセリング・サービスに行った彼女は中年の女性カウンセラーと何回か話をするが、その解決策をカウンセラーは示す。OLは寮生活だった高校生時代、後輩から部屋の名札を預かる。 この後輩は自殺し、OLはその後も名札をたんすにしまい続けており、カウンセリングで少女時代を思い出したOLは名札を探すが、たんすから消えていた。解決策は意外なものだった。カウンセラーの夫の区の土木課長と部下が一匹の猿を捕まえ、この猿が名札を盗んだことを告白するのだ。 猿は自殺した少女に恋したがゆえに、彼女が死んだ後名札を探し続け、OLの部屋から盗んだのだという。OLは名札を取り返し、名前も忘れないようになる。村上は最後にOLの心の中を書く。「ものごとはうまく運ぶかもしれないし、運ばないかもしれない。しかしとにかくそれがほかならぬ彼女の名前であり、他に名前はないのだという認識に至った」と。 「日々移動する腎臓のかたちをした石」も不思議な作品だ。書いている物語が途中で行き詰まって困っている作家と職業不詳の女性がかかわりは、想像を超えた結末を迎える。冒頭で主人公は父親に「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない」と教えられるくだりがある。職業不詳の女性は3人の中の1人に違いない。 私を含め、多くの男は一生のうちで本当に意味を持つ3人の女性と知り合うことができるのだろうかと考えた。この作品はありそうでなさそうな世界の話である。