小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

347 エリザベート ハプスブルク家最後の皇女の波乱の生涯

画像
「激動の歴史」という言葉が頭に浮かんだ。塚本哲也の「エリザベート」を読み終えたのは、中国・上海に向かう飛行機の中だった。これから行く中国とエリザベートが生きた中欧は、第二次大戦後、「社会主義」というイデオロギーに翻弄された共通の歴史があるが、いまはそのまま社会主義を歩む中国と、社会主義の呪縛から解放された中欧とはかけ離れた存在だ。 1992年に出版され、大宅ノンフィクション賞をもらった本である。読みたいと思っていたものの、機会がないままに時間だけが過ぎた。塚本さんはこの本を書く前に夫人の父親である元国立がんセンター総長の塚本憲甫らを描いた「ガンと戦った昭和史」(講談社ノンフィクション賞受賞)を1987年に出版している。その当時、よく塚本さんを見かけた。小柄で銀髪の紳士だった。 エリザベートは、塚本さんの記者としての時代感覚、旺盛な取材力が生きており、出版後16年が過ぎても色あせしないばかりか、エリザベートを通じて壮大な「中欧の歴史」の学習をすることができた。副題(ハプスブルク家最後の皇女)にもあるが、エリザベートは中世から20世紀前半まで中欧に君臨したハプスブルク家の老皇帝フランツ・ヨーゼフを祖父に、男爵令嬢と心中した皇太子ルドルフを父に生まれた。 その生涯は「波乱に満ちている」という表現を超えた激しいものだった。それは、ハプスブルク王朝の崩壊から続く第一次、第二次という2回にわたる世界大戦の荒波の中でもまれ続ける小船のようなものだ。恋多き女性、気品ある皇女、かん馬ともいわれた。しかし、その生涯は決して幸せではなかった。 ヒトラードイツとの戦いが終わると、彼女が住むオーストリアスターリンソ連に占領される。老練な政治家レンナーは、巧みな政治運営でソ連の監視網をかいくぐりオーストリアを「永世中立」国家へと導く。エリザベートはウイーンに住んでその動きに一喜一憂しながら日々を送る。 恋多き女性と書いたが、彼女は生涯で3度の恋をする。3人目の相手は社民党のリーダーであるペツネックで「赤い皇女」ともいわれるが、生涯の伴侶となるのはこのペツネックだった。彼女は80歳になった1959年、老衰で亡くなる。ばく大な遺産のほとんどは、遺言により、子どもには渡らずウイーン市や修道院に寄付される。 その潔さにはそう快ささえ感じる。皇女として、不自由のない暮らしの娘時代から戦火に追われる日々を送り、伴侶を先に亡くしたエリザベートの晩年は寂しい。死の床には、3匹の愛犬(シェパード)が控え、この3匹も遺言で薬殺されたという。 この本からは、エリザベートの生涯を通じて中欧の3つの姉妹都市、ウイーン、プラハ、ブタペストの激動の歴史も浮かび上がる。いま、この3つの都市には平和が戻った。先月(2008年9月)訪れた、この平和な3都市の美しい夜景はいまも忘れることができない。(同じ名前で祖母の皇妃エリザベートは、1898年9月10日、ジュネーブレマン湖のほとりで、イタリア人無政府主義者に暗殺された。東京の帝国劇場で11月3日から始まるミュージカルは、この皇妃をモデルにしたものだ)