小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

313 8月(5) ある中国帰国者の人生

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ことしの8月8日は、末広がりの意味がある「8」という数字が3つ並んで縁起がいい日といわれ、北京五輪も開幕した。そんな夜に東京である中華料理店の6つ目の店がJR蒲田駅前にオープンした。

25年前に小さな店からスタートしたこの店がここまでになるとは想像もつかなかった。店主の八木功さんのあいさつがとても心に響いた。以下はそのあいさつだ。(写真は左が八木さん、右が友人代表の善元幸夫さん)

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私は1934年に中国の旅順(現在は大連市に編入され、旅順口区)で生まれました。父は日本人、母は中国人です。父は旅順でレストランを2つ経営していて、優しい人でした。母は旅順でも有名な美人だったそうです。私たち家族は終戦の混乱の中で父と離れ離れになり、中国人に世話になっていました。

家族のために私は12歳から仕事をするようになりました。14歳のころは土木作業員をしていて、生活は苦しくパンの耳とジャガイモの皮を拾って、家族5人の食事用にしていました。16歳から大工の仕事をやり、24歳で組長(何人かのメンバーの中心)になりました。

そのころはだれよりも早く仕事場に行き、一番遅くまで残って働きました。そのために「夜鬼」(仕事の鬼)と呼ばれました。34歳で現場監督になりましたが、まだ若いというのでその時の給料は普通の人の半分の月46元しかもらえませんでした。

(注、40台後半に東京の父の身寄りと連絡が取れて、日本に永住したものの、日本語ができず、生活は厳しかった。ギョウザをはじめとする家庭の味がする八木さんの料理の腕を見込んで日本語学校教師の善元さんら多くの人が支援して、東京・蒲田に中華料理店「你好」(ニイハオ)を開店したのは50歳の時だった)

いま私は75歳になり、分かったことがあります。一つは自分の仕事を一生懸命にやれば楽しくなるということ、もう一つはこうして商売をしているが、お金をもうけることより心からお客さんを大事にすることが第一だということです。サービスの秘けつは「いいもの、おいしいものを安く提供する」ことなのです。

そのために、店を始めて25年になりますが、一度も値上げをすることなくやってきました。オープン当時は消費税もありませんでしたが、その後3%、5%と消費税がつくようになりました。それでも値上げはしませんでした。

お客さんに喜んで食べてもらうことがうれしいからです。これができたのは、いつも支援をしていただいている皆さんのお陰なのです。例えば、八百屋さんは市場で、その日に残った物を安くたくさん持ってきてくれるし、肉屋さんも肉の値段をほかよりも安く卸してくれる。これが長い間続いているから、私の店も値上げをしないでやっていけるのです。

日本に来たとき、私は日本語は全くできませんでした。経済的感覚も全くありませんでした。ここまでやってこれたのも皆さんの力添えがあったからこそで、心からから感謝しております。

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八木さんは、昨年3月26日のブログ(「ある中国残留孤児物語 苦節24年餃子で成功」)でも紹介しているが、この当時は4軒目のオープンだった。それから1年半にしたさらに2つを開き、八木さんの分身ともいえる「你好」は蒲田に4店、芝公園前と町屋に1店ずつの計6店になった。

それは、やすくておいしいものを多くの人に提供したいという彼の一途な思いの結果なのである。苦しい人生を歩んできた八木さんは、人気中華料理店のオーナーとして成功しても、謙虚さを失っていない。白い帽子をかぶり、割烹着姿で店に出るのが楽しみなのだ。

新しくオープンした店は、これまでの羽根付きギョウザ(小麦粉を溶かして焼きギョウザにかけると、羽根のような薄い皮がつく。これが你好の名物なのだ)に加えて、新しく開発したピリッと辛いチャーハンがお奨めのメニューだそうだ。