小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

291 犬の6歳の誕生日 不惑でも、まだ・・・

7月1日は、わが家で飼っている雌犬「hana」の6歳の誕生日だった。うっかりしていて、全く忘れていて、朝の散歩もいつものようにやり、何の声も掛けずに出かけた。健忘症だったのは私だけでなく、家族全員だった。朝食でだれもそのことを話題にしなかったのだ。 夕方になり、娘の一人が思い出し携帯電話に「きょうははなの誕生日だよ。祝いに好物の豆腐を買って帰る」というメールを送ってきた。人間なら、かなり前から誕生日のプレゼントはどうするなどという話をしているので、忘れることはない。家族の一員のはずなのに、配慮が欠けていたと思う。(写真はケーキ代わりの豆腐にろうそくに似せて挿した煮干) 犬の6歳は、人間にたとえると40歳に当たるそうだ。「不惑」である。私の40歳当時を振り返り、果たして不惑の境地に達したか、はなはだ疑問に思っている。というよりも、当時の私はまだまだ迷い、惑う日々を送っていた。それはいまでもあまり変わらない。どうしたらそのような境地に達することができるのか。周囲をみても、不惑という言葉がピタリ当てはまるような人物はほとんどいない。 わが家の犬に戻るが、彼女はさすがに落ち着いた毎日だ。しかし、とても不惑という印象はない「変人」(私のことを家族が言う)飼い主に似ていてくせも少なくない。朝は寝起きが悪く、起こしてもなかなか目を覚まさない。好物の煮干を出すと、ようやくもそっと身体を起こす。 雨が降ると、散歩は省略し、排泄を終えると急いでわが家に引き返す。内弁慶なので、外に出ると小さな犬にほえられると、飼い主の身体の陰に隠れるように小さくなる。なのに、宅配便や郵便屋さんがインターホンを鳴らすと、甲高い声でほえる。 だれかが、アイロンをかけると慌てて、階段を駆け上がり、2階へと緊急避難する。アイロンをかけていた娘が、ふざけて蒸気をhanaに向けたことがあり、それ以来、アイロンは彼女の天敵になったのだ。 しかし、6歳ともなると、人間の言葉の一部を理解するようで「車」というだけでものすごい反応を示す。餌を食べることはもちろん一番重要で好きなことなのだが、車はその次くらいに大好きなのだ。 寝ていても「車」と話しただけで身体を起こして、近寄ってきて身体を寄せる。さらに玄関から居間を行ったりきたりして落ち着かない。そんなときに玄関のドアを開けようものなら、車に向かって飛び出しかねないのだ。いま、彼女は夏毛に変わるための抜け毛の季節を送っており、車の後部座席は抜け毛が目に付き、犬嫌いの人を乗せることはできない。 犬は自分から飼い主を変えることは不可能だ。飼い主と相性が悪くとも、あきらめざるを得ないのだ。では、hanaはわが家の生活に満足しているのだろうか。私を除く家族への接し方を見ていると、まあ満足しているのかもしれない。 hanaを含めたペットに比べ、自分の進路を自分で決めることができる人間は幸せだ。選択した道で納得できる日々を送ればいいのであり、好きな道に固執できるからだ。 友人の大事な人が人生の岐路に立っていると聞いた。どんな道を進むにしても「初心を忘れず、悔いを残さないで」と、そっと声を掛けてやりたいと思う。
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