小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

250 メディアの衰退 新聞もテレビも?

新聞の活字が大きくなった。高齢者を意識し、読みやすさを考えた拡大なのだという。しかし、このために提供される情報量が減ったことは間違いない。

読みやすさというが、私を含め50歳代くらい以降の年代はかなりの人が老眼鏡をかけて新聞を読むのだから、少し活字が大きくなっても読みやすくなったと諸手を挙げて賛成することはできない。これではインターネットのニュースとあまり差がないではないか。

新聞が新聞なら、テレビはもっとひどいと嘆息する。4月1日は、多くの会社で新入社員の入社式があった。噴飯ものだったのは、東京の民放テレビ各局が入社式に芸能人を呼んで、派手なパフォーマンスをやらせたことだ。

テレビ局は、報道機関の一翼を担っているはずだ。これではテレビ局とはいえず、「芸能局」といった方がいいくらいのバカさ加減ではないか。その模様をわざわざワイドショーなどで放映するのだから、テレビ局の人間の無神経ぶりにはあきれてしまう。

新聞の活字拡大に戻る。共同通信社友で元上智大教授の藤田博司氏は、新聞通信調査会報の最新号にこの問題について寄稿している。藤田氏は新聞の文字拡大の歴史を紹介し、現在の新聞が同じ紙面に収容できる字数は30年前の半分前後に落ちていると指摘する。

もちろん、ページ数も増えているので、情報の量が半分になったわけではない。増ページが文字拡大に伴う情報量減少を埋め合わせてきたかどうかは、緻密な調査が必要とも言う。

だが、記事1本あたりの文字数はかなり少なくなっていることは明白で、一面や社会面のトップ記事でも以前に比べ短くなっている。読売新聞は社告で「簡潔で明瞭な文章をこれまで以上に心がけ、レイアウトや見出しにも工夫を凝らしますので、情報が減ることはありません」と説明するが、新聞からこくのある文章が姿を消し、インターネットの情報とあまり変わりがない記事が並ぶとしたら、新聞の魅力は薄れてしまうだろう。

藤田氏は「ニュースを伝える新聞の役割は、読者の必要とする情報を正確に、十分に提供することにある。一連の文字拡大の過程で記事の短縮、簡略化が進められ、その結果、新聞の役割が脅かされかねない限界に近づいているように思われる」と書いている。

的確な指摘だと思う。文字拡大に疑問を呈する声は少数派かもしれない。だが、私は少し長くても、面白い記事を読みたいと思うのだ。テレビについては、これ以上は触れない。しかし、視聴者をバカにした姿勢は、マスコミの一員としての役割を放棄したといわざるを得ない。(ちなみにある局では、番組の約60%に吉本興業を中心としたお笑い芸人がかかわっているという)