小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

242 散り際の美学とは あるランナーの生き方

日本には、昔から「散り際の美学」という言葉がある。これまでの輝かしい選手生活やあるいは第一線の生活に幕を下ろして「卒然と散り行くことが美しい」という滅びの美学でもある。スポーツ選手や政治家などの引退の時期をめぐって、この言葉を思い浮かべる。

名古屋国際女子マラソンで惨敗し、北京五輪へ出場する夢を立たれた高橋尚子選手が、引退をせず、現役を続けると話しているのをテレビで見て、かつて全盛期に突然、現役を引退した一人のランナーを思い出した。

小島和恵という選手の名前を覚えているだろうか。彼女は青森の高校で中距離選手として頭角を現したあと、川鉄千葉に所属し、1989年4月23日のパリマラソンで優勝した。当時、23歳。海外の大きなマラソンで日本人選手が優勝したのは彼女が初めてだった。

この若さからみれば、この後の世界陸上バルセロナ五輪の有力候補といわれてもおかしくはなかった。ところが、24歳を迎えて彼女は突然「体力の限界」を理由に引退し、大学に進学する。

川鉄千葉は、いまマラソンの解説で活躍する増田明美さんがいて、小島は増田の陰に隠れてなかなか芽が出なかった。当時の勤務先に小島が広報とともに遊びに来た。

とても素直で理知的な感じの小島は、私たちの職場が珍しいのか楽しそうに長い時間話し込み、写真も一緒に撮影した。色は白く、典型的な津軽美人だった。まだマラソンに出る前の長距離選手としては未知数の時代だった。

その後、彼女は1987年3月の名古屋国際女子マラソンに一般選手として参加し、初マラソン日本最高タイムで2位に入り、さらにパリマラソンで優勝するまでに力をつけていく。しかし、突然引退してしまった。「パリマラソンのあと、疲れが取れにくくなった」というのがその理由だ。

彼女は大学に進学し別の人生を歩んでいく。マラソンファンの多くは早すぎる引退に惜しいと思ったことだろう。しかし、私は彼女の顔を思い浮かべて、賢明な選択だったなとの感想を持った。年齢は若くても、身体は疲れ切っていたのだろう。(その後、彼女は山口百恵の元マネージャーと結婚した。式には、三浦友和・百恵夫妻も出席したという)

一方で高橋は体がぼろぼろになっているはずなのに、現役にこだわる。その背景について、いろいろな憶測が流れている。

真相は知らないが、純粋にマラソンを愛するがゆえに、現役にこだわると思ってやりたい。大リーグに挑戦する野茂や桑田など他のスポーツでも現役を選択しようとする選手は少なくない。

客観的に見て、高橋も野茂も、桑田もかつての栄光を取り戻すことはかなり高い確率で難しいはずだ。でも、自分を極限にまで追い込んでいく姿には、応援をしたくなるのだ。馬術法華津寛選手は67歳という史上最高齢で北京五輪に出場する。散り際の美学を捨て、懸命に目標に向かう生き方も美しい。