小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

176 世界遺産第1号「姫路城」 司馬遼太郎の世界を思う

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「うーん」とため息をついた。何とも言いがたい感情だ。昨年3月に訪れたドイツのノイシュバンシュタイン城を連想した。いつでも行けると思いながら、これまで行くことがなかった国宝、姫路城についに立ち寄った。 天守閣は、馥郁としたキンモクセイ(驚くほど黄色い花が咲いている)の香りに包まれ、気高さを誇っているように見えた。 姫路城が法隆寺地区の仏教建造物とともにわが国で初めて世界文化遺産に登録されたのは1993年12月のことである。その理由は、城に600円の料金を払って入る際に渡されたパンフに書いてある。 「日本の築城技術が高揚期を迎えた安土桃山時代から江戸時代初期に造営された最も完成された城郭建築であり、壮麗な連立式の天守閣群をはじめ数多くの建物が築城当時のまま美しい姿で今日まで残る唯一の城として普遍的な価値が認められた」。
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「百聞は一見にしかず」である。広大な城内に入る。有名な世界遺産なのか、入場者の半分は外国人だ。韓国のカップルに写真のシャッターを押すように頼まれ、サービスをする。 まず2代将軍徳川秀忠の長女千姫が住んだ「西の丸」を見る。千姫は政略結婚で、豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪城が落城したあとは、徳川の臣、本多忠刻と再婚する。本多の死後、江戸城に戻るが、70歳の天寿(当時としては)を全うする。魅力ある女性だったのではないかと想像する。ちなみに、姫路駅から城までは「お姫様」という無料バスが走っている。 日本の城は暗くて狭い。そんな印象が強かった。しかし、姫路城は広かった。西の丸から天守閣まで、すべて板敷きで各部屋は広い。あかり取りがあり、目が慣れれば、そう生活に不自由はしなかったのかもしれない。 天守閣からは360度、姫路市内を眺望することができる。監視役(そんな武士がいたかどうは不明だが、私の想像だ)が常時見ていれば敵の襲撃に備えることができる。監視の当番に当たる侍たちは外の景色を楽しむ余裕はなかったのかもしれない。でも、市内はよく見え、あちこちに移動しても飽きることはない。 天守閣から出ると「播州皿屋敷」の主人公「お菊」が投げ込まれた井戸があった。家老のお家乗っ取りの企てを知ったお菊が通報し、お家の大事を救った。しかし家老の恨みを買い、家宝の皿一枚をなくしたという冤罪に問われたお菊は井戸に投げ込まれて殺される。以後、その井戸からは「ナンマイダー」というお菊の声が聞こえるという話である。手を合わせて城を出る。 姫路城は「白鷺城」(はくろうじょう)ともいわれる。天守閣群が空に向かって建ち並ぶさまと天守群と白壁が絶妙にマッチしていて、天を舞う白鷺のように見えることからこの別称が使われている。関ヶ原の戦いが終わった翌年の慶長6年(1601年)から8年をかけて徳川家康の次女督姫の夫池田輝政が建てたのだという。
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播磨灘物語」という司馬遼太郎の小説がある。戦国時代の武将で、豊臣秀吉の名参謀といわれた黒田官衛兵の活躍を描いた作品だ。官衛兵が暮らした当時の姫路城はいまのような立派なものではなかった。しかし、秀吉が天下を征する際にこの城が大きな役割を果たしたことから、別名「出世城」ともいわれ、その後城主が代わるごとに大改築が進んで日本一ともいえる名城に進化を遂げたのである。 建築物は、時代を写す鏡ともいえる。ドイツのノイシュバンシュタイン城も、日本の城も封建国家の象徴だった。あれだけの城を築くのに、多くの民衆が動員された。いまも残る美しい城の下にはそうした名もない人々の血と汗が埋まっていることを忘れてはなるまい。   姫路市を象徴する姫路城だが、このあと訪ねた関西地方で「姫路は、あのような立派な城があるのに落ち着きがない。街づくりの失敗だ」という声を聞いた。それは、日本全体に共通すると思われる。ドイツでは、街の美観を守るために洗濯物を外に干してはならないという条例をつくった市もあると聞く。住民たちは必ず乾燥室をつくり、美観保護に協力しているのだという。そうした厳しい制限は、日本ではあまり聞かない。