小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

26 硫黄島の星条旗

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 今月下旬、アメリカの映画「父親たちの星条旗」が日本でも封切りになる。

 この映画は、太平洋戦争で日米が死力を尽くして戦い、双方合わせて2万7千人の戦死者を出した「硫黄島」の攻防で、この島にある高地・摺鉢山に星条旗を立てた6人の米兵士の生死を描いたノンフィクション「硫黄島星条旗」が原作だ。(日本側の戦死者は2万0129人、米側は6821人だが、戦傷者は21865人に上る)

 6人のうち3人は硫黄島で戦死した。生き残った3人のうち2人は不幸なまま一生を終え、葬儀社を興して成功した元兵士は硫黄島の戦いについて家族に黙して語らぬまま生涯を閉じた。

 「硫黄島星条旗」は、この「黙して語らなかった」元兵士の息子がピューリツァー賞作家と共作、6人を通じて「戦争の悲劇」を描いており、2000年にアメリカで出版されるとベストセラーになった。

 硫黄島はいまは自衛隊の基地があるのみで、一般人は立ち寄ることはできない。太平洋戦争当時、日本軍はここに、洞窟の陣地を作り、栗林忠道中将指揮の下、本土防衛の基地とした。

 なぜか。1944年7月にサイパン島が米軍に占領され、東京とサイパンの中間にある硫黄島を攻略されれば、サイパンから発進した米軍機が日本本土への攻撃を容易にできるようになるからだ。

 1945年2月、米海兵隊7万5000人が硫黄島の攻撃を開始した。戦いは1ヵ月に及び、島を占領した米軍はその後3月の東京大空襲、8月の広島、長崎への原爆投下を可能にしたのである。

1932年のロサンゼルス五輪馬術の大障害競技で金メダルを取ったバロン西こと西竹一陸軍大佐も、この戦闘に参加し戦死したのは有名。

 摺鉢山への星条旗掲揚は、最初別の兵士らによって行われた。その写真も軍のカメラマンが撮影している。6人の兵士はその後、旗を取り換えろという上官の命令で摺鉢山に登った。これにAP通信のカメラマン、ジョー・ローゼンソールが同行し、冒頭の写真を撮影したのだ。

 これが最初の写真より、なぜか早く配信された。全米の新聞が飛びついて掲載し、米国民を熱狂させる。(構図もよく、ローゼンソールはピューリツァー賞を受賞する。ことし8月94歳で老衰のため死去)

 6人はその後英雄扱いとなり、生存していた3人は米政府の戦時国債募集のPRツアーにかり出され、膨大な戦費捻出に大きな貢献を果たすのだ。本書は、戦争写真の傑作として有名になったこの写真の撮影から、その後戦意高揚に利用されるまでの経緯についても詳しく紹介している。

 作品を書いた元兵士の息子ジェムス・ブラッドリーは、日本びいきで現在も日本に住んでいる。作品の中では日本軍が捕虜になった米兵に虐待死させたことなどを厳しく指摘している。当然なことだ。

 しかし、東京大空襲や広島、長崎への原爆投下で多くの一般市民を殺したことには触れていないのが、気になった。

 戦争については一切話さないで旅たったブラッドリーの父親。社会的に成功しても、戦争という地獄は一生の重荷になったのだろう。

 戦争は個人の運命を変えてしまう。なのに、この世界から、この忌むべき行為がなくならない。人間は愚かな動物なのだ。

 映画は俳優でもあるクリント・イーストウッドが監督し、アメリカ側からの視点でつくったという。イーストウッドは日本側からの視点で、渡辺謙中村獅童を起用し、「硫黄島からの手紙」という映画を制作中で、12月に公開されるそうだ。