小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

111 近衛文麿とは 彼はなぜ自殺したのか

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 戦前、3回にわたり首相の座に座り、敗戦後GHQの呼び出しの動きを知って青酸カリで服毒自殺した近衛文麿。これまで「優柔不断」「太平洋戦争を阻止できなかった男」というイメージが強かった。 最近、近衛の生き方、政治を点検した2冊の本を読んだ。「われ巣鴨に出頭せず」(工藤美代子著、日本経済新聞社)と「近衛文麿 黙して死す」(鳥居民著、草思社)である。

 それは、これまでの近衛像を大きく変えるものだ。戦後近衛は戦犯に問われそうになり、自死を選ぶ。両著で明らかになったのは、GHQに太平洋戦争開戦の責任ありという報告をしたのは、カナダ人でGHQの調査分析課長だったE・H・ノーマンであり、ノーマンに情報を提供したのは都留重人(経済学者・元一橋大学学長)だったという。 さらに、鳥居は2人の背後に天皇の忠臣で、元内大臣木戸幸一(明治の元勲木戸孝允の孫)がいたと指摘する。

 開戦に異論を唱えた近衛と、開戦に同意した木戸。木戸は保身のために、ノイマンと自分の縁戚関係にある都留を利用した。都留から「開戦の責任は、東條英機だけでなく近衛にもある」という話を聞いたノイマンは、近衛の責任を問う報告をGHQにしたのだというのだ。 優柔不断といわれた男が、黙したままなぜ自死を選んだのか。2冊の本を読むとその苦悩が伝わってくる。それが彼なりの責任のとり方であったのであろうか。 一方の木戸は戦犯に問われながらも、死刑は免れ仮釈放をされて長寿を全うする。

 しかも、昭和天皇に信頼されたまま、長い一生を送ったのである。 開戦の時の首相だった東條は、次第に独裁者の様相を見せ、反東條の動きを始めた近衛を特高警察を使って監視するという卑劣な手段を使ったことも、鳥居は明らかにしている。 その東條は、戦後ピストル自殺を図るが未遂に終わり、A級戦犯として極東軍事裁判で死刑判決を受け、絞首刑となる。しかし、靖国神社にはいつの間にか神として合祀され、いまも物議の対象になっている。

 それにしても、太平洋戦争とは何だったのかと思う。指導者の名誉、保身のために、数百万の国民と2千万人ものアジア諸国の国民を犠牲にした。いま、近衛に関する著作を読んで、あらためて人間の愚かさに身震いする。(07.4.15)