戦後80年。新聞には、さまざまな太平洋戦争にまつわる記事が載っている。ソ連の参戦・侵攻による旧満州(中国東北部)からの日本人避難民の悲劇も当然含まれている。その一つである、藤原ていさん(1918-2016)の『流れる星は生きている』(中公文庫)を読み返した。夫と引き裂かれ、幼い子ども3人とともに新京(現在の長春)からソ連軍が占領した現在の北朝鮮宣川~開城を経て徒歩で38度線を越え釜山へと脱出、故郷の長野県に引き揚げるまでの1年余に及ぶ苦難の避難行を記したノンフィクションだ。そこには「生と死」は隣り合わせであることが詳細に記されている。そんな実態は、今もウクライナやガザで繰り返されている。
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藤原さんの夫は作家の新田次郎(1912—1980。本名藤原寛人)だ。新田はソ連が旧満州に侵攻した1945年8月9日当時、満州国観象台(中央気象台)の課長をしており、ていさんは、長男で5歳の正弘さん、次男で2歳の正彦さん、生後1カ月の長女咲子さんとともに、新京から避難列車に乗り、北朝鮮を目指す。新田は気象台の事後処理で新京に残りソ連軍の捕虜となり、家族とは合流できない。
このノンフィクションは、戦後大ベストセラーとなり、多くの人に読み継がれた。ここではていさんたちの避難行の内容は割愛するが、3人の幼いこどもの命を守るために母親のていさんが、必死に生き抜いたことが記されている。幼児の3人を抱えて、混乱の中を生き抜くことの困難さは容易に想像がつくだろう。
3人の子どもたちは成長し、自動車メーカーに勤めた正弘さんは引き揚げの話になると黙って席を立ち、数学者になった正彦さんは「どうして川がこわいのか」と問いかける。母親に抱かれ北朝鮮の川を渡った記憶はなくとも、深層心理にその怖さが残っていたのだ。咲子さんには往時の記憶はもちろんないが、母の記録を読み「お母さんのような苦しみに耐えられるかしら」と、母親としての立場で話したことなどが、文庫本の後書きに書かれている。新田自身、多くの小説を書きながら、自分の引き揚げの記録は一度書いただけで、戦後の夫妻には引き揚げ話は禁句だったという。
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私にも旧満州から家族で引き揚げた伯父がいた。私が幼い頃、しばしば妹である母がいるわが家に遊びにやってきた。草笛の吹き方を教えてくれたり、竹トンボを作ってくれたりするなど、器用で面白い人だった。みんなが「まんしゅうさん」と呼ぶのを、幼い私は不思議に思って聞いていた。成長して、伯父が旧満州に住んでいたため、そう呼ばれていると知った。
だが、旧満州でどんな仕事をし、どんな状況で引き揚げてきたかは話を聞いたことがない。開拓民ではなかったようだが、かなりの苦労をし家族が病気になって貧苦の中を戻って来たなど、漠然とした話を聞いた記憶がある。しかし、私が記者になったころはこの世を去ってしまい、伯父一家の引き揚げ時の詳しい状況を知ることはできなかった。母もほとんど聞かされなかったようだ。伯父にとっても引き揚げ話は、新田家同様「禁句」だったのかもしれない。
ていさんは長野県の実家に戻ってから長い間病床におり、死と隣り合わせの中、3人の子どもに遺書を書いたそうだ。自身の死後、人生の岐路に立った時、母親が苦難の中を歯を食いしばって生き抜いたことを教えたかったためだという。しかし、ていさんは生きる力を取り戻し、書いたものは遺書にならないで済んだ。ていさんは「今考えると、私は彼らに何一つ残してやるものはないけれど、この本だけは、たった一つの遺書として、彼らに生きる勇気を与えてくれるかも知れない」と、文庫本の後書きで思いを吐露している。世の母親たちも、形は違ってもていさん同様、愛するわが子に何かを残している。久しぶりにこの本を読み終えて、私はそう思った。
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