小径を行く 

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。(筆者=石井克則・遊歩)

2864 戦争に翻弄されたシャガール 『緑の自画像』を観る

夕焼けの下、風見鶏は何を思うのか

 うっかり屋の私は、一枚の絵を見て2人の女性が描かれていると思った。この絵は『緑の自画像』というタイトルが付いたマルク・シャガール(1887~1985)の作品だ。ということは、この絵の中心にいる人物は男性のシャガールであり、私の勘違いだった。隣にいるのはこの絵が描かれてから1年後に結婚するベラ・ローゼンフェルトだそうだ。東欧系ユダヤ人のシャガールは、後にヒトラー率いるナチス・ドイツの影響を受けることになるが、もちろんそうした影はこの絵から感じることはない。

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 このブログでもシャガールについては、経歴も含めて何度か取り上げている。再度触れてみると、帝政ロシア時代のヴィテブスク(現在のベラルーシ、ヴィーツェプスク)で1887年アシュケナージ(東欧系ユダヤ人)の家に生まれた。サンクトペテルブルクの美術学校、ズヴァンツェヴァ美術学校で学んだ後、1910年にはパリを訪れてエコール・ド・パリの作家と交流し、影響を受けた。4年後ロシアに戻り、ベラと知り合い1915年に結婚した。この絵は結婚前の2人を描いた作品で、ベラは後にシャガールの多くの作品のモチーフとして描かれた。 

 シャガールは、結婚後パリに戻ることを考えていたという。しかし第一次世界大戦が始まったことから、故郷にとどまり、さらにロシアの十月革命もあって人民美術学校を設立する。さらにモスクワの舞台美術制作などを経て、1923年にパリに移った。シャガールの人気は次第に高まるが、ナチスがヨーロッパで勢力を拡大すると、ユダヤ人であるシャガールの立場は危うくなりベラとともに1941年にアメリカへ亡命、ベラは44年にウイルスに感染し48歳で亡くなった。48年にフランスに戻ったシャガールは50年にフランス国籍を取得、1985年に亡くなるまで南フランスで暮らした。

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 私が勘違いした『緑の自画像』は、腕が見えている緑色の服を着てパレットと筆を持ったシャガール本人が中央に位置し、細長い顔が隣にいるベラの話に耳を傾けるように首を左に曲げている。2人の親愛ぶりが伝わる。シャガールは毒舌でも知られた画家だ。同じ時代を歩んだピカソの作品に対し、かなり厳しい批評をしたといわれる。アメリカからフランスに戻ってからのシャガールのテーマとして「戦争の反省・平和への祈り」が挙げられるという。

 第1次、第2次という2つの大戦に翻弄されたシャガールの人生。ナチス・ドイツによってホロコースト(絶滅政策・大量虐殺)の対象になったユダヤ人。その国家であるイスラエルがパレスチナ・ガザでやっている戦闘行為。シャガールが存命なら、どんなことを言うだろうか。辛辣な言葉が出るかもしれない。
(『緑の自画像』は私の部屋の大日本印刷・絵画カレンダーの9月分です。この絵の冨田章氏の解説を参考にしました)

1311 「戦争」を憎むシャガールの絵 チューリヒ美術館展にて

973 人生讃歌・画家の夢 シャガールの愛をめぐる追想展

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