小径を行く 

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。(筆者=石井克則・遊歩)

2856 黙って見る夕陽 夏の平凡な一日

「夕陽を眺めるのに不要なものは一つだけ、むだなことばだ」~ 長田弘の「夕陽を見にゆく」(詩集『人生の特別な一瞬』晶文社)という詩の中に、こんな一節がある。夕陽を見るのに言葉は要らない、ただ黙っているだけでいいというのだ。たしかにそうだ。昨日夕、散歩に出かけたら、西の空にちょうど夕陽(夕日)が輝いていた。それは黙って見ているだけでいい、という形容そのものだった。

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 長田の詩は、晴れた夏の日の暮れなずむときに見た夕陽の風景を描いている。後半に北海道旭川の丘に夕陽を見に行ったことが書かれてある。そしてこの詩は「夕陽はマジシャンだ。黙って、眺めているだけで、いつしか気もちの奥まで、あかあかと照らされてゆく。やがて、ありふれた一日が、すばらしい一日に変わる。ありふれた出来事が、すばらしい記憶に変わるのだ」で終わっている。

 昨日夕、わが家で午後の間勉強をしていた孫娘を家まで送っての帰り、散歩コースの調整池に足を向けた。すると、西の空の雲の切れ目から夕陽が顔をのぞかせていた。真っ赤な太陽だ。一日中暑かった。だが、空気が澄んでいるのだろう。太陽の赤い色がひと際鮮やかに見えた。こんな夕陽をどのように表現したらいいのだろう。そう考えた時、長田の詩を思い出したのだ。言葉は要らない、ただ黙っていればいい。

 ドイツの作曲家シューマンも同じようなことを言っている。時には、言葉と縁を切ることがあってもいいのだと、思う。
「音楽について話す時、一番いい話し方は黙っていることだ」(シューマン・吉田秀和訳『音楽と音楽家』岩波文庫)

 反対の東側の空に目を向ける。入道雲浮かんでいる。1時間ほど前、ゴロゴロと雷が鳴るのが聞こえ、夕立があるかと思っていた。一雨あれば、少しは涼しくなる。だが、期待外れに終わった。その名残の雲が動いているだけだった。

 長田は、詩の中で夕陽を見た後の焼きトウモロコシがおいしい、ということも書いている。私にも毎年、北海道からトウモロコシが届く。札幌の友人が長い間、習慣のように夏になると送ってくれるのだ。この夏もホワイトコーンという白色で甘味の強いトウモロコシが先日届いたばかりだった。夜、夕方見た夕陽を思い出しながら食卓に上ったホワイトコーンを食べた。夏の平凡な一日が暮れた。

 

 

 



  416 空を見上げて思うこと 超越したい煩悩

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