甲子園の夏の高校野球は、沖縄代表の沖縄尚学が西東京代表の日大三高を3-1で破って優勝した。選抜大会では2回優勝しているが、夏は初めて。沖縄勢の夏の大会優勝は2010年の沖縄興南以来だという。沖縄尚学の短い校歌を聞きながら、首里から見た那覇の街が頭に蘇ってきた。火事で焼失した首里城はあと1年で再建される。沖縄尚学の優勝は、その前触れではないかと思わずにいられなかった。
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甲子園大会は、春夏とも勝ったチームの校歌が流れる。沖縄尚学の校歌( 崎浜秀主作詞/ 渡久地政信作曲)は、本当に短い。こんな短い校歌は珍しいのではないか。作詞者の崎浜は教育者で、師範学校教諭などを経て市立那覇商業学校校長を務めた。作曲の渡久地も沖縄県出身で、恩納村生まれ。奄美大島で少年時代を送った。歌手から作曲家に転向、『上海帰りのリル』が大ヒット、渡久地メロディーといわれるヒット曲を数多く作曲した。
那覇を見渡す祝嶺森(しゅくみねもり)に
聳(そび)える甍(いらか)は我らが母校(ここをもう一度繰り返す=この部分は早稲田大校歌と同じ。 崎浜は早大卒)
夏の大会を主催している朝日新聞の報道によると、甲子園で試合後に勝ったチームが本塁付近に整列し校歌が流れるようになったのは、1929(昭和)年の第6回選抜中等学校野球大会(現在の選抜大会)からだ。前年に開催のアムステルダム五輪陸上女子800メートルで銀メダルを獲得した人見絹枝が提案したのだといわれる。選抜大会を主催する大阪毎日新聞社員だった人見は、日の丸が掲揚されるシーンに感激し、甲子園でも勝利チームをたたえるため、試合後に校歌吹奏と校旗掲揚を提案し、それが実現した。夏の大会は1957年からだが、これまで春、夏合わせ数多くの校歌が流れたことになる。
沖縄尚学に敗れた日大三高は夏2回、春1回の優勝を飾っている強豪校だ。その校歌は全国の校歌を作曲した兵庫県出身の音楽教師、山本正夫(1880-1943)が作詞・作曲したものだ。私が山本を知ったのは、卒業した小学校(福島県矢祭町東舘小=現在は矢祭小)の校歌を作詞・作曲した人だったからだ。ただ、私はほとんど校歌を覚えておらず、後年、校長になった知人が同小に2つの校歌があったことを不思議に思い調査し、その内容を知らせてくれたことがきっかけだ。それをブログに4回続きでまとめたのは2010年のことだった。そんな縁もあって、日大三高の校歌にも関心を持っていた。
しかし、流れたのは沖縄尚学の前述の校歌(5番まであるそうだ)だった。そんな短い校歌だが、沖縄で小学生時代の数年を送った中学生の孫娘は、尚学の優勝を喜び、テレビから流れる校歌を一緒に口ずさみ「あっという間に終わったね」と言って、笑っていた。
606 復活した校歌の物語(1) 執念の校長の調査
2537 激戦を生き抜いた作詞家 『上海帰りのリル』の東条さん偲ぶ
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