かがやけるひとすじの道遥けくてかうかうと風は吹きゆきにけり 斎藤茂吉の歌集『あらたま』の中の「一本道」に収められている歌である。私は「輝いているこの一本道の行く先は遠く遥かであり、ごうごうと風が吹き抜けているそうだ」と、解釈する。Mさんという札幌在住の知人が先日、80年の生涯を閉じた。彼の歩んだ道は、茂吉の歌のように輝く一本道であり、その道は遥かに遠く、時には強い風も吹いていた。そんな道を、彼は「ランクル(ラウンドクルーザー=トヨタの大型クロスカントリー車)」を駆って走り続けた。
にほんブログ村
Mさんは、かつて私も在籍したことがある共同通信札幌支社の総務部に所属したドライバーだった。ランクルは支社の取材用の車だ。東京五輪の翌年、1965(昭和40)年に入社したMさんは札幌支社の社有車運転一筋に37年、北海道で発生した事件、事故の現場を記者、カメラマンとともに走り回った。2002(平成14)年に定年退職するまで走行距離は60万キロに及び、無事故運転を続けた。私たち週末ドライバーの年間走行距離はせいぜい5000~8000キロぐらいだから、Mさんの現場に通った距離のすごさが理解できるだろう。
几帳面な彼は退職する際、1965年から2001年までの札幌支社勤務者の名簿とランクルが出動した思い出の取材記録を『ランクルとともに 駆け回った仲間たち』という冊子にまとめた。私の名前も載っている。彼が歩んだ37年は日本の戦後史を飾るニュースが多く、北海道も波乱と激動の歴史を刻んだ忙しい時代だった。
Mさんが大事故取材に初めて出動したのは、62人が亡くなった65年1月発生の夕張・北炭幌内炭鉱のガス爆発事故だった。入社して間もない時期の大事故取材行だった。ここでは81年10月にもガス爆発があり、93人が犠牲となり、この後閉山に追い込まれたことはよく知られている。夕張にあった他の炭鉱も相次いで閉山、炭鉱の町夕張は斜陽化していった。この取材にもMさんが記者、カメラマンとともに出動したのは言うまでもない。Mさんにとって、この悲惨な炭鉱事故は辛い思い出として忘れることができないものだったに違いない。カメラマンがいないときにはプロに負けない写真を撮影した。
このほか日本の十大ニュースにもなった事件、事故を含め、北海道で起きた大小の事件、事故にMさんは出動した。私たち記者やカメラマンは数年で転勤をしたが、Mさんは札幌支社一筋だったから、昭和から平成時代の北海道の歴史を記録した1人だったと言える。Mさんが関係した主なニュースを以下に列挙する。
「十勝沖地震」(68年)、「札幌医大の日本初の心臓移植」(同)、「ばんだい号墜落事故」(71年)、「冬季札幌五輪」(72年)「北海道庁爆破事件」(76年)、「有珠山大噴火・23年ぶりの噴火」(77・2000年)、「大韓航空機撃墜事件」(83年)、「青函トンネル開通・同営業開始~青函連絡船廃止」(85・88年)、「北海道南西沖地震」(93年)、「豊浜トンネル崩落事故」(96年)。
Mさんが定年退職した当時の札幌支社の編集部長は、社内向け編集活動報告で彼の定年と人となりを記している。その文章は、人生の先輩への敬意と感謝にあふれていた。
付け加えるなら、曲がったことが嫌い、人の悪口を言わない、兄貴分的風格の人だった。Mさんは3月29日に80歳を迎え、その4日後の4月2日に亡くなった。今は、風がなく、どこまでも続く一本の道を、ランクルでのんびりと走っているのかもしれない。Mさんは三神芳(みかみ・よし)さんです。

ご愛読ありがとうございます。
読み終え気に入りましたらたら、下のバナーをクリックしてください