小径を行く 

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。(筆者=石井克則・遊歩)

2276 絶望と勇気どちらを選ぶ「生きる悲しみ」の時代に

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(近所の公園で咲き始めた河津桜の蜜を吸うメジロ

「二度と人間に生まれたくない」。第1回直木賞受賞者で作家、劇作家の川口松太郎(1899~1985)からこんな言葉を聞いたと、同じ劇作家の宇野信夫(1904~91)がエッセイ(山田太一編著『生きるかなしみ』ちくま文庫)で書いている。人気作家として活躍し、多くの作品が新派の舞台にもなった川口の言葉を聞いて、宇野は衝撃を受けたという。人間には人知れぬ苦しみがあることを示す言葉と言える。
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宇野はエッセイで川口との交流の思い出に触れたあと、冒頭の言葉をある時聞いたと書いている。続いて、ある貧しい噺家(落語家のこと)が「ああ、死にたい」と口癖のように言っていたことも記している。この噺家は、自分がうまいと思っているのに世間が認めない、仲間がよってたかって自分を殺している(活躍するのを邪魔しているという意味)と思い込んでいる。暮らしは貧しく、苦しいから「死にたい」が口癖なのだ。「病気にかからないからいいじゃないか」と慰めると、「私は病気をするほど運がよかぁありません」と言ったそうだ。

宇野はこの噺家の口癖ほど絶望的な言葉はないと思っていた。しかし、川口の言葉はそれ以上であり、「いっとき私は川口さんをうらやましい人だと思ったのは、私が浅はかな人間だからである。川口さんは、言うに言われぬ苦労をしょって一生を送った人である」と、エッセイを結んでいる。

川口の言葉を聞いて、どう思うだろうか。その通りだと受け止める人がいる一方で、いや私はまた人間に生まれ変わりたいと思う人もいるだろう。考え方は人それぞれに異なるはずだ。それにしても、現世で人は多くの苦しみを味わい続けている。厳寒の中、大地震に見舞われたトルコ南部、シリア北部ではがれきの下にまだ多くの人が埋まっている。ロシアが軍事侵攻を続けるウクライナでは、人々の住まいに向けミサイルが容赦なく発射されている。人間の歴史は人同士が殺し合う戦争の歴史でもある。第1次、第2次という2つの大戦の時代に生きた川口は、人間に絶望したのだろうか。生きることは悲しみとの二人三脚の日々でもあるのだ。ドイツの文豪、ゲーテも「わたしは人間だったのだ。そしてそれは戦う人だということを意味している」(西東詩編「入口」から)と述べている。

「もしも神様の思し召しで生きることが許されるなら、わたしはおかあさんよりりっぱな生き方をしてみせます。つまらない人間で一生を終わりにはしません。きっと、世の中のため、人類のために働いてみせます。そしていま、わたしは考えます。——そのためには、なによりまず勇気と、そして明朗な精神が必要だと!」(深町眞理子訳『アンネの日記』文春文庫)。ナチスの手からから逃れるため、オランダ・アムステルダムで家族とともに隠遁生活を送った後、密告によってナチスに連行され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ポーランド)、さらにベルゲン・ベルゼン収容所(ドイツ)に送られ、チフスになってこの世を去ったアンネ・フランクは、最後まで生きる希望を捨てなかった。

 ユダヤ人を人間と扱わなかったナチス横行の時代にあっても、人間に絶望はしていなかった。15年しか生きることができなかったアンネ(お転婆で元気な少女だったそうだ)は生まれ変わって、この世界の片隅で勇気と明朗な精神を持って生きているのかもしれない。

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 追記 川口の妻は母親役で知られる女優の三益愛子(1910~82)である。夫妻は文京区春日のマンション(川口アパートメント=筒井康隆の小説のモデルになった)に住んでいて、三益が紫綬褒章を受章した1976(昭和51)年11月、駆け出しの社会部記者だった私はこのマンションの部屋で三益にインタビューしたことがある。にこやかな表情で質問に答える姿は、母親役そのもののように思えた。

 

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(公園で咲き始めた河津桜を見る母子)
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