小径を行く 

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。(筆者=石井克則・遊歩)

2630「秋の日のヴァイオリンのため息」 名詩と暗号と写真家と

yugata

 

 フランスの詩人、ポール・ヴェルレーヌ(1844~1896)の詩でよく知られているのは上田敏(1874~1916)訳の『落葉』だろう。同じ詩は、堀口大學(1892~1981)によって『秋の歌』と訳されている。どちらも名訳だが、秋の風が肌に感じる季節に口に出して読んでみたい詩だ。この詩は、第2次世界大戦の連合軍のノルマンディー上陸作戦の暗号として使われたという。名詩が歴史に残る暗号になったことに、作者自身は苦笑いしているかもしれない。
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秋の日の ヸオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し。
 鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ 過ぎし日の おもひでや。
 げにわれは うらぶれて こゝかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな。
(上田敏訳『落葉』=『海潮音』より)

秋風の ヴィオロンの 節(ふし)ながき啜泣(すすりなき) もの憂(う)き哀しみに わが魂を 痛ましむ。
 時の鐘 鳴りも出づれば せつなくも胸せまり 思ひぞ出づる 来し方に 涙は湧く。
 落葉ならね 身をば遣(や)る われも、 かなたこなた 吹きまくれ 逆風(さかかぜ)よ
(堀口大學訳『秋の歌』)

 第2次大戦の戦局が、連合軍へと大きく傾いたノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦・史上最大の作戦)。1944年6月6日、ドイツ占領下の北フランスの海岸へ連合軍兵士が大挙上陸した。「6月2日、3日の夜、BBC(英国放送協会)の暗号が放送された。大陸の地下組織は、この暗号に胸をとどろかし、いよいよ解放の日が近づいたのを知った」。イギリスの元首相、ウィンストン・チャーチルは『第2次大戦回顧録 抄』(毎日新聞編訳・中公文庫)で、こう書いている。

 実際には暗号は6月1日から3日間、午後9時のニュースの中で、フランス語「Les sanglots longs des violons de l'automne」(上田訳=秋の日の ヴィオロンの ためいきの)で「個人的便り」として放送されたという。「連合軍の上陸が近い、準備せよ」という意味で、レジスタンへの通報だった。さらに、6月5日午後9時15分からは「blessent mon cœur d'une langueur monotone(同=身にしみて ひたぶるに うら悲し)が放送された。これから48時間以内に作戦が実施されるという連絡だった。フランス人ならだれもが知っているといいほど、よく知られた詩。ヴェルレーヌ自身、後世にこんな使い方をされるとは思ってもいなかっただろう。

この作戦に同行した写真家のロバート・キャパは106枚の写真を撮影した。ところが、暗室の助手が興奮のあまりネガフィルムを現像して乾燥させる際、過熱させて乳剤を溶かしてしまい、ほとんどがだめになってしまった。残ったのはわずか8枚で、熱気でぼやけた写真には「キャパの手はふるえていたと説明してあった」(『ちょっとピンぼけ』ダヴィット社)という。惜しいことをしたと思わざるを得ない。(実際に残ったのは72枚のうちの11枚という説もある)

ただ「皮肉なことに、助かった写真のブレは、実際にはその劇的な衝撃力を強めることになったかもしれない。というのは、ボケていることで、そこから緊張感が伝わり、爆発音が響いてくるかのように感じられるからだ」(リチャード・ウィーラン・沢木耕太郎訳『キャパ その死』文藝春秋)というから、暗室作業の失敗は、意外な効果があったようだ。キャパ自身、ヴェルレーヌの詩が暗号として使われたことを知っていたかどうかは分からない。

※ヴェルレーヌ=早熟の天才といわれ、飲酒、男色、放浪という波乱の生涯を送った。『落葉』(秋の歌)は1866年出版の処女詩集『サチュルニアン詩集』にあり、20歳の時の作品だ。感情のさまざまな動きを音楽的言葉(音楽的韻律)で表現した。ヴィオロンはヴァイオリンのこと。ヸオロンはヴィオロンと読み、フランス語violonのカタカナ表記。

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