小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1989 1本の花の物語 幻の「海棠の歌」

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 庭に1本だけある海棠の花が満開になった。昨年よりかなり早い。歳時記の本の説明には「4~5月に薄紅色の花をつけた花柄が長くうつむきかげんになるのをしばしば美女にたとえる」(角川学芸出版『俳句歳時記』)とあり、庭の一角が華やかに見える。題名や歌詞に花を取り入れた歌は数多く、かつて海棠も歌になったことがある。この歌をめぐって悲しいエピソードがあった。それは一本の花の物語といえる。

 「海棠の歌」(作詞時雨音羽、作曲は島田逸平)が、映画の主題歌としてつくられたのは1941年ごろのことだった。時雨音羽編著『日本歌謡集』(社会思想社・現代教養文庫)によると、歌詞は1番から4番まである。1番は「姿やさしい海棠の 花につれない夜の雨 あらしになったらなんとしょう」という歌詞だ。音羽は自註で「わが家の庭に1本これがあった。毎年咲いて雨に濡れるとこの唄を思い出したものだ。(昭和)20年の春、見事な花をつけ、その花が終るか終らない頃、大空襲となり、家もろとも焼け失せてしまった。それから海棠を見ない」と書いている。  

  時雨(1899~1980)は北海道利尻島出身で、大蔵省(現在の財務省)勤務を経て作詞家となり、代表作として「スキー」や「君恋し」が知られている。時雨が住んでいた東京は太平洋戦争当時、1944年11月24日から1945年8月15日まで106回の空襲を受けている。中でも1945年3月10日の空襲は大規模で被害も大きく、東京大空襲といえば、この日のことを指すことが多い。このほかにも45年4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日~26日の4回も大規模だったといわれている。  

  時雨家の海棠は3月10日にはまだ開花していないはずだから、この大空襲では焼失を免れて開花、4月13日か15日の空襲で焼けてしまったとみていいのではないか。題名や歌詞に花の名前が入っている歌を集めた『メロディに咲いた花たち』(三和書籍)という本がある。この本には総計456の歌が収められているが、前述の「海棠の歌」は含まれていない。戦前の映画で使われたものの、一般には普及しなかったのだろうか。現在では幻の歌といっていいのかもしれない。  

  わが家の庭では、海棠のほか日本石楠花も一部が花を開き始めた。遊歩道沿いに植えられた桜(ソメイヨシノ)も満開が近い。多彩な花の季節。人はそれぞれに花との物語を紡いでいく。  

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  写真1、2は海棠 3、日本石楠花