小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1923 政権を投げ出した首相 現代の政治家が失ったこと

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 本来なら有終の美を来年の東京五輪で飾るはずだった。だが、安倍首相は28日、辞任を表明した。持病の難病、潰瘍性大腸炎が再発したというのが表向きの理由だ。あと1年の任期を残しての辞任の背景に何があるのだろう。病によって精魂ともに尽き、政治のリーダーを続ける意欲がなくなったのだろうか。(それほど懸命に政治に取り組んだとは思えない。取り巻きの官僚の言いなりになったにすぎないのではないか、裸の王様だった、という声も聞こえてくる)あるいは、コロナ対策に嫌気がさし、政権を投げ出したのか。こちらの説の方が有力なようだが……。

 安倍政権の功罪は様々だ。私から見たら罪の方が大きい(うそが多かった)のだが、野党に力がないから次のリーダーも自民党の誰かがなるだろう。その条件は?

 ゲーテはこんなことを言っている。「大衆に仕える者は、あわれむべき奴だ。彼は散々苦労したあげく、だれからも感謝されない」(渡辺義雄訳『ゲーテ格言集』岩波文庫・「格言的」から)。首相辞任を表明した安倍首相もそうだが、これが政治家の宿命なのである。  

 だから、孔子は政治を目指さなかった。「ある人が老先生(孔子)におたずねしたことがあった。『貴殿はどうして政治の現場に乗り出そうとされないのか』と。老先生はお答えになった。『書(儒教の古典・書経)に《孝こそ大切、兄弟仲良く、それを御政道に及ばせ》とあります。《家庭の道徳が基礎であり、私は今それを大切にして生活しておりますので》どうして政治の現場に乗り出しましょうか』と。  

 それでも、権力を握ることを至上の喜びとする人たちは、国民・市民のためと言いながら、政治を目指す。そして、かつては「清濁併せ呑む」人たちが政治家になった。善でも悪でも分け隔てなく受け入れる、度量の大きいことのたとえであり、要は心の広い人のことを言う。政治家にとっての理想のようにも見える。戦後の歴代首相を見ると、これに当てはまるのは、好き嫌いは別にして田中角栄だった(9割は濁だったか)かもしれない。だが、今はこうした政治家は見当たらない。  

 それは現代社会を反映しているのだろうか。カリスマ性は、ほとんどの政治家にはない。それでも、うそをつくことはうまい。ベーコンはこんなことを言った。「昔から『地位は人を現わす』と言われたが、これはこの上なく真理である。また地位は人を一段と善く現わすこともあり、悪く現わすこともある」(『ベーコン随想集』岩波文庫)。今の政治家は地位を得ると、なぜか悪くなる。現代の政治家が失ったこと→誠実さ、うそをつかないこと、清貧さ、井戸塀……。  

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