小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1922 早朝の二重(ふたえ)虹 天まで続く七色の階段

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「こんな美しい虹を見たのは初めて」「二重の虹はなかなか見られないよね」。朝6時前、雨上がりの北西の空に虹が出ているのを見た。しかも二重の虹である。散歩を楽しむ人たちは、束の間の自然界のパノラマに見入っている。何かいいことがありそうな、そんな自然界からの朝の贈り物だった。

 俳句歳時記(角川学芸出版)には、「虹(夏の季語・朝虹、夕虹、二重虹)は、雨上がりに日光が雨粒にあたって屈折反射し、太陽と反対側に七色の光の孤が現れる現象。夏に多く見られる。(中略)俗に、朝虹は雨になり、夕虹は晴れになるといわれる」と出ている。今日は今のところ青空が広がっている。しかし、このごろは天気が急変することが珍しくないから、俗説が当たるかもしれない。二重の虹については以下のような句がある。たまたま5句とも女性の俳人の句だ。  

 マチュピチュに雨期の終りの二重虹 須賀敏子  

 どこまでも追ひ駆けて来る虹二重 須藤トモ子  

 大切な人と見上げし虹二重 山本浪子  

 虹二重神も恋愛したまへり 津田清子  

 黒板に明日の予定虹二重 蘭草慶子  

 

 以前、私もマチュピチュに行ったことがある。その時は3月で、雨期(11月~4月)に当たっていたが、幸い雨は降らず好天に恵まれた。遺構を見下ろしていると、目の前を蝶が舞っていた。浮かんだのは「天空の城悠然と蝶ひらり」という句だった。  

 詩人の萩原朔太郎(1886~1942)はあまり多くはないが、俳句も書いている。その中に虹を描いた句「虹立つや人馬にぎはふ空の上」がある。この句には「わが幻想の都市は空にあり」という詞書き(『遺稿』より)が付いている。朔太郎流に言えば、今朝の二重の虹は、空も下界(散歩の人たちが足を止めていた)もにぎわしてくれたように思える。  

 百田宗治(1893~1955)の詩「光」を読むと、虹を連想する。  

 自分はのぼってゆく。  どこまでもつづく階段、  黄金(きん)の階段。  

 自分はのぼってゆく。  光は遠い、  真実の太陽の光。  

 自分はのぼってゆく。  どこまでもつづく階段、  黄金の階段。  

 ――光は遠い。  しかし光は溢れてゐる、  光はそこにあふれてゐる。                (「閲歴」より)  

 太陽の光を受け、空高く伸びる孤に乗ってどこまでものぼって行くと、七色の光があふれている世界が見えるようだ。  

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