小径を行く 

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。(筆者=石井克則・遊歩)

2626 積んどく本を減らすために 耳をかくより書に親しむ

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(開花したシュウメイギク

「『本のない家』はしだいになくなりつつある。そしてそれがまもなくまれにしか見られない例外となってゆくことが望ましい」。ヘルマン・ヘッセはエッセイ『読書について』(『ヘッセの読書術』草思社文庫)で、自分の生まれ育ったドイツの事情を、こんなふうに書いた。117年前の1907年の話だ。後にドイツを離れて暮らしたヘッセは、本を読むことの大切さを訴え続けた。間もなく10月。「読書の秋」到来だが、灯火親しむ人はどれほどいるのだろう。ネット時代、本のない家も増えているかもしれない。文化庁の2023年度「国語に関する世論調査」(全国の16歳以上が対象)で、1カ月に1冊も本を読まない人が6割(62.6%)を超えたという発表があった。「灯火親しむ」は死語になりつつあるようだ。 
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私は最近、これまで積んで置いたままになったり、かなり以前に読んだ記憶があるものの内容を忘れてしまった本を読み直している。そのとっかかりともう言うべき本として選んだのが辻邦生の『西行花伝』(新潮社)で、引き続き辻の『雲の宴』(上下、朝日新聞)を読んでいる。平安時代末期から鎌倉時代初期の歌人西行の生涯を描いた前者と、現代の日本とフランス・ヨーロッパ、アフリカを舞台にした社会派小説(朝日新聞に連載)ともいうべき後者。時代を使い分けた巧みな言葉遣いと文字の力。辻邦生の世界に浸りながら、頁を繰った。

 秋の夜の灯(ともしび)しづかに揺るる時しみじみわれは耳掻きにけり 斎藤茂吉の歌だ。文芸評論家の山本健吉は「静かな秋の夜の独り居。夜風が渡ってきたのだろう。『耳掻きにけり』は如何にも茂吉調で、ユーモラスだ。たとえばこれが、『書読みにけり』では、何の変てつもない」(『句歌歳時記 秋』新潮文庫)と評した。凡人の私は「書読みにけり」と詠み替えてもいいと思ってしまったのだが……。一方、正岡子規「書読まぬ男は寝たる夜長哉」という川柳のような句を作った。

秋の夜は長く、本を読まない男は寝過ぎる(逆に読む男は寝不足になる)という句だ。だが、現代はテレビ、スマホ、ゲームと本を読まなくとも夜更かしになる材料は事欠かない。だから寝過ぎることはなく、寝不足の人の方が多いかもしれない。

施閏章(1618~1683)という清初(漢民族統治の明から満州族による清へと王朝が交替した初めの頃の時代)の詩人の『買書』(書を買う)という面白い詩がある。

笥(はこ)を積むも 貯(たく)うあたわず
 架を列(つら)ねて 坐の隅に盈(み)ちたり
(なけなしの金で買った本=当時は線装本~袋とじ=は、笥に入れるか、書架に積むしかなかった時代。笥を書架の隅に置いてその棚に本を並べる。しかし生活空間は狭くなって行く。それを見た妻が皮肉る)


 妻孥(さいど) 我を顧(かえりみ)て笑う
 趼粟(かめのあわ) 留儲(りゅうちょ) 罕(まれ)なり
 いわんや君の目すでに眚(わる)し
 これに殉ずるは すなわち愚かならんや
(部屋に入って来た妻が一瞥してため息をつきながら笑った。どこに本を買う金があるのでしょう。米びつは空なのに。それにあなた、目が悪いのでしょう。それでも本と心中すつもりなの?馬鹿みたいね)

詩はこの後も続く。「本は置くだけでも目の楽しみ、いずれは川のそばに草堂を建てそこに本を移し、死ぬまで本を枕にして寝ることができれば、何て幸せかと夢を見ているんだ、その時はお前さんは用済みだ」~と妻に皮肉を返す内容だ(原詩は割愛。参考資料=草森紳『酒を売る家』竹書房)。現代、そんなことを奥さんに言い返す亭主はいないだろう。もちろん、私もそんな勇気はない。

読書の秋のブログ

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