小径を行く 

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。(筆者=石井克則・遊歩)

2401「明窓浄机」は遠いのか 読書の楽しみ方

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「明窓浄机」(めいそうじょうき)という言葉は、今はほとんど聞かれなくなった。「明るい窓とちり一つない清潔な机」から転じて、明るく清潔で落ち着いて勉強できる書斎、読書や物を書くことに適している場所を言う。何となく想像はできるが、学者は別にして現代はこんな部屋でゆっくりと読書をする人は、そう多くはないかもしれない。
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10月は「読書の秋」ともいわれる。この季節がなぜ、読書に合うのだろうか。このところ、日本の夏は猛暑が続いて過ごしにくい。しかしエアコンが不要な秋は夏に比べ過ごしやすく、集中力も持続する。それに秋は夜が長いので、読書の時間も増える。明治の文豪、夏目漱石が小説『三四郎』(4)に「そのうち与次郎の尻が次第に落ちついてきて、燈火親しむべしなどといふ漢語さへ借用して嬉しがるようになった」という一節がある。

これは8世紀ごろの中国、中唐時代の詩人・思想家、韓愈(768824)の「符読書城南詩」にある「時秋積雨霽 新涼入郊墟 燈火稍可親 簡編可卷舒」(秋になり長雨もやんで空も晴れ、涼しさが野原や丘にもやってきた。灯火を灯して、書物を広げられるようになった)を指しており、この作品以降、「灯火親しむ、読書の秋」と言う言葉が広がったといわれる。

現代は街から多くの書店が消え、電車に乗るとほとんどの人はスマホの画面に見入っていて、本を読んでいる人の姿は珍しいほどだ。スマホの人たちが家に帰って読書の秋に浸るのかどうか、私には分からない。「明窓浄机」という理想の読書スタイル風景は、遠いのではないか……。と思っていたら、読書家の知人から『読書ノート』という、最近読んだ本の読後感を書いた文章がメールで届いた。今回は太宰治の『右大臣実朝』(岩波文庫)がテーマだ。私はこの知人こそ「明窓浄机」のスタイルで読書をしているのではないかと、想像した。この作品は鎌倉幕府の3代将軍、源実朝に仕えた近習が、実朝の将軍と歌人という人物像と非業の最期を遂げるまでの日々を回想する形で描いた、太宰初の歴史小説だ。

知人の読書ノートは今回で(62)になる。太宰の作品に関する読書ノートはまず、作品の時代背景である鎌倉時代について、源頼朝鎌倉幕府開府からの動きを記し、太宰の作品に描かれた実朝像を紹介していく。あらすじは割愛するとして、知人は読後の感想として3点を挙げている。1つは物語が実朝に仕えた者の目で書いたことが成功していること、2つ目は作中の実朝が太宰自身のことではないかと感じたこと、3つ目は太宰がこの作品を楽しみながら書いた(実朝の短い言葉を片仮名で書いている)のではないか~という点だ。

このうち2点目では、太宰の実家が大富豪だったことと実朝が頼朝の子として何の苦労もなく地位を与えられたという「貴種」としての共通項があることから、2人とも己の滅びを心の底で感じたいたように思われると指摘している。同感だ。結びでは「太宰という人間の本質が潜められている作品だと見たいし、本作はサービス精神が発露した天才太宰の名作だと思う」と評価しているが、この視点は鋭いと思う。

英文学者で随筆家の福原麟太郎(1894~1981)が「読書の愉しみ」(『読書と或る人生』新潮選書)について触れている。

《ねる前まで読んでいて、あとは明日にしようと、残り惜しくも本を閉じ、明日の朝を待つ心持で枕につくとか、外から家へ帰ってくるとき、帰ったら、あの本にすぐに取りつこうぜと心に思いながら、電車に乗っている、というようなことは、決して無くはない。私自身の経験にも、そのような時代があった。今から思うと、どんな貧乏でも、どんなに辛いことがあっても、そういう時にその人は幸福なのである。小説、詩歌の本に限らない。無味乾燥と思える学問の書でも、そういう楽しい愛着をもって、がむしゃらに読めるものである。読書の愉しみ(楽しみ)というのはそれだ。それは生きることと共にある愉しみ(楽しみ)というものではないであろうか》















今回届いた読書ノートを読むと、知人もこれに当てはまる印象を持った。私も、そんな読書の楽しみの時間を持ち続けたい。

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