「10年ひと昔」という。「世の中は移り変わりが激しく、10年もたつともう昔のこととなってしまう。また、歳月の流れを、10年をひと区切りとして考えること」(小学館『デジタル大辞泉』)という意味だ。確かに私自身、10年前のことを聞かれても思い出すのはなかなか難しい。そこで日記を見れば、昔日のことを思い出すことができるのだ。だから、日記の効用はかなり大きいといえる。

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10年前の3月。日記には南米へ旅したことが書かれていた。2014年3月5日から15日までの10日間の旅だった。この旅の中心は「イグアスの滝」と「マチュピチュ」訪問だった。特にマチュピチュは、カンボジアのアンコールワットとともに、世界遺産の中でもひと際人気が高いい遺跡といっていい。画家の岡本太郎は『美の世界旅行』(新潮文庫)で、マチュピチュについてかなり感動的に書いている。
「真青にはりつめた青空。透明な陽光のもとに、この壮大な神殿都市の廃墟は見るものの心を無限の神秘に誘う」 「限りない夢を秘めて、マチュピチュの遺跡は静まっている。無言の石のつらなり。無惨な明るさのなかにひろがる巨大な空間の感動。私はここに死と生の交歓、永遠と瞬間の交錯の、目くるめくドラマを見る思いだ」 「人類文化は栄光に輝きながら滅びて来た。人間がほんとうに生きるのは、瞬間瞬間に滅びるからこそではないか。私は帰りの汽車の中で永い間ゆられながら、夢に酔ったような気分だった」
私が小高い丘に立って、マチュピチュの遺跡を見下していた時のことだ。一匹の蝶がひらひらと目の前を舞うように飛んで来たのだ。羽は橙と黒が混じっていて、優雅な蝶だった。それは、マチュピチュの栄光と滅亡の歴史を考えてみてほしいと訴えているかのように私には見えた。(蝶に詳しい同行者がいて、ナンベイホソチョウ=一部は絶滅危惧種に指定=の仲間のである「Actinote nega か Actinote monina」だと教えてくれた)
マチュピチュへの行き帰り、ペルーの首都リマに立ち寄った。人の往来は多いが、何となく陽気さとはかけ離れたような雰囲気の街だった。岡本太郎は同様の印象を持ったようで、この街について同書で「もの悲しい、何か抑えつけてくるような憂鬱な雰囲気に驚いた」と記している。さらに「その原因がわかった。リマでは、いつでもどんより曇っていて、直射日光がささない。影がないのだ」と書き進め、リマの人の話を紹介している。
《インカ帝国を征服したピサロが新しい都をつくろうとしてインディオに適地を尋ねた。スペイン人が残虐でひどいことをしたので、恨み骨髄だった彼らは、わざと一番悪い場所を教えた。ここはもと墓場だった。一年中、日がささないところ。インディオの呪いがそれに加わっているのだと》
現代にも通ずる、理不尽にも侵略者に征服されてしまった側による無言の抵抗。リマの歴史はそれを物語っているように思える。私の日記はただ、簡単に旅程が記してあるだけで、詳しい記述はない。だが、簡単な旅程を見ながら、そうした風景を頭に描くことができるから、備忘録としての日記も捨てちゃもんじゃない。
以前のブログにも書いたことがあるが、作家の村上春樹は、旅行している間、細かく文字の記録は取らず、小さいノートをポケットに持っていて、その都度ヘッドラインのようなもの、例えば「風呂敷おばさん!」などと書き込むのだという。後でそれを見ると、トルコとイランの国境近くの小さな町に変わったおばさんがいたな、などと思い出すことができるのだという(『遠い太鼓』講談社文庫)。
旅の間中、写真も撮らずメモも取らないという人とも複数出会ったことがある。その方が頭の中にしっかり記憶できるのだそうだ。それぞれに異なる手法で旅を記録する。私もメモは最小限度しか取らない。明治時代にイギリスからやってきて『日本奥地紀行』(高梨健吉訳・平凡社)を書いたイザベラ・バードは、多くのスケッチを描いている。それはメモとしての力になったのだろう。
写真 1、マチュピチュに舞う蝶・斎藤寛康さん撮影。2、岡本太郎が「もの悲しい雰囲気」と書いたリマの街。