小径を行く 

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。(筆者=石井克則・遊歩)

2413 被ばくは『第五福竜丸』だけではなかった 闇に沈んだ真相

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 最近、知人から『第五福竜丸』事件関連の資料を受け取った。この事件のことは昔中学の社会科で習い、読売新聞がスクープしたことも知っていた。ただ、もらった資料には私がほとんど知らなかった内容が含まれていた。(今回は少し長めです。興味がある方はお付き合いください)

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 ▽高校生の鋭い勘
 太平洋・マーシャル諸島ビキニ環礁で起きた『第五福竜丸』(静岡県焼津市)事件。この事件(事故ではなく、事件と呼ばれている)は戦後史の中でも大きな位置を占めている。1954(昭和29)年3月1日、アメリカが実施した水爆実験で乗組員23人が死の灰(大量の放射能を含んだサンゴ礁の細かいチリ)に被ばく、無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)が半年後に亡くなった事件だ。

 この事件は、読売新聞のスクープだった。元読売記者でノンフィクション作家、本田靖春(1933~2004)の『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)によると、焼津港に第五福竜丸が戻って来たのは3月14日夜のことだ。間もなくして読売新聞焼津通信部の安部光恭記者に下宿先のおばさんから「ビキニで乗組員が強い光のかたまりを見てほどなく爆発音を聞き、しばらくして降ってきて白い灰を浴びた。23人の乗組員のうちやけどを負っていた2人が東京の病院に運ばれた」と言う情報が寄せられ、静岡支局を通じて社会部へと上げられた。おばさんが工業高校2年生の息子にこの話をしたら、「それは放射能かもしれない。安部の兄さんに知らせたら」というので、安部記者に連絡したという。

当夜、当番で社会部にいたデスクと社会部記者の1人は、その年元旦から31回続いた原子力問題を扱った連載企画のメンバーだった。これが幸いし見当をつけて当たった入院先が東大病院と分かり、しかも乗組員の1人から話を聞くことに成功、16日付け朝刊の一面トップを飾る特ダネになったのだ。

第五福竜丸の船長は、被災した時、本土向けの打電を禁じ、寄港した際も乗組員と口外しないよう申し合わせ、警察にも海上保安部にも報告しなかった。米軍にスパイ容疑で捕獲されることを恐れたためだった。結果的に以上のような経過をたどり大ニュースになったのだが、それは高校生の鋭い勘と安部記者の深い人脈形成、社会部記者の問題意識と取材力が重なった「世紀の特ダネ、大輪の花だった」(同書)。

▽他の漁船も操業
 実はこの時期、周辺海域では多くの日本漁船が操業(マグロ漁)していた。『第五福竜丸』の悲劇に比べ、この事実はあまり知られていない。アメリカの核実験から長い年月が過ぎた中、その闇に沈んだ真相に迫るドキュメンタリー映画をつくり続ける日本人監督がいる。一方、当時周辺海域で操業していた漁船員が多かった高知県では、今も元乗組員の健康相談を続け、今月、室戸市と土佐清水市で開催されている。

ビキニ環礁では、1946~58年までの12年間、アメリカが67回の核実験を実施(都立『第五福竜丸』展示館HP)、周辺海域では多数の日本漁船が操業中で、992隻(うち高知県関係は延べ270隻)が被災したという。しかし、日本政府は「見舞金」の支給だけで対米交渉を打ち切り、『第五福竜丸』以外は、黙殺の形になった。高知県の漁船の被災は、30年以上の歳月が過ぎた1985年から高知県の高校教諭が高校生とともに聞き取り調査などを進める中で明らかになった。2016年には高知県の元漁船員と遺族らが、被ばくの事実や調査結果を隠していたとして国に対し6500万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。1審の高知地裁は、原告らの被ばくは認定したものの国の賠償責任を否定、2審も原告が敗訴し上告を断念した経緯がある。

▽ドキュメンタリー映画
 ドキュメンタリー映画は、2004年から太平洋核実験の漁船被ばく問題の取材を進めていた当時南海放送(愛媛県)ディレクターだった伊藤英朗さん(現在はフリー)が『放射線を浴びたX年後』としてまとめ、2012年に全国の映画館で公開、200カ所以上で自主上映した。2015年には『X年後2』が公開され、今年は『X年後3』が各地で自主上映されている。「1」、「2」は太平洋で被ばくしたマグロ漁師たちの被害を、「3」はアメリカネバタ州の核実験によるアメリカでの放射能汚染の実態を追ったもので、子どもを守るため「乳歯調査」を続けている女性たちの姿などが描かれている。放射能で汚染された牧草を食べた牛の乳にはストロンチウム90が含まれ、子どもの体内で放射線を出し細胞を攻撃し骨の腫瘍を引き起こす危険があるという。このため、ホットスポットといわれたセントルイスの科学者と母親たちが子どもの乳歯に含まれる同90を測定するプロジェクトを立ち上げたのだ。

「2」は高知県室戸市出身で、東京で広告代理店を営む川口美砂さんがインタビューアとして参加した。川口さんの父親は元遠洋マグロ漁船の乗組員で、36歳の時急死した。たまたま2013年の夏、東京から帰郷した際、「1」を見て、父親の世代がビキニ環礁で被ばくしていたことを初めて知り、その後伊藤監督の手伝いを始めたという。厚労省への情報開示請求の結果、川口さんの父親が乗った船は、水揚げした魚類が放射能検査で廃棄処分になっていたことが判明、父親の死と放射能との因果関係は不明だが、被ばくした可能性もあるとみられている。

この作品では当初、インタビューをしようとした伊藤さんと川口さんに対し、漁師たちは当初「来るな」「帰れ」と怒号を浴びせたという。「今頃になってなんだ、遅すぎる」という怒りに加え、「触れたくない」「思い出したくもない」という気持ちが強く、しかも室戸では放射能の話はタブーだったと、川口さんは『週刊エコノミスト』(毎日新聞出版)の取材に語っている。

▽島民も被ばく
 アメリカのビキニ環礁での水爆実験で、被ばくしたのは日本人漁船員だけではなかった。3月1日、ビキニ環礁から150キロ離れたマーシャル諸島・ロンゲラップ島(住民82人)にも死の灰が降り、被ばくしたロンゲラップ島民50人と隣のアイリギンアエ島民12人に対するアメリカ原子力委員会(AEC)のカルテによれば、やけど、血球減少、吐き気、脱毛など広島、長崎に見られた急性障害が認められ、その後も白内障や流・死産、吐血といった症状が続き、半数以上ががんなど、甲状腺障害を訴えていると、現地を取材した西山明共同通信記者が著書『原爆症候群』(批評社)でその実態を記していた。

アメリカから始まった核開発は核兵器による軍備拡張へと発展、現在は世界の全人口の殺戮に必要な破壊量以上に核兵器が配備された「オーバーキル」の状態にあるといわれる。しかも有数の核保有国であるロシアのプーチン大統領は、軍事侵攻したウクライナで核兵器の使用を辞さないという発言を続けており、核の脅威はすぐ近くに迫ってきているのが現状だ。そんな時代だからこそ、伊藤監督や川口さんらの活動がますます重要さを増しているといえる。

▽後輩記者の祈り
 前述の西山記者は私の社会部時代の後輩で、中国残留孤児問題を一緒に取材した。教育や家族問題をテーマに編集委員として活動していた2005年、病のためこの世を去った。西山記者はこの本(1982年刊行)の終わりに、短い言葉で以下のように記していた。既にアメリカ・スリーマイル島事故(1979年)が起き、この後チェルノブイリ原発事故(1985年)、東電福島原発事故(2011年)と原発の大事故が起きている。私たちは今、この言葉をかみしめなければならないと痛感する。

《私たちのいのちは30億年にわたる人類の歴史の集積である。ヒロシマ、ナガサキの原爆投下、米国、ソ連(ロシア)、中国、フランスなどの核実験、原子力発電所の核被害は長いいのちの歴史に汚点を残している》

☆主な関係資料

・週刊エコノミスト記事(2021.12/29・1/5号。毎日新聞出版)ほか伊藤英朗監督、川口美砂さ    
  んインタビューなど
 ・ドキュメント『放射線を浴びたX年後Ⅲサイレント・フォールアウト」パンフ
 ・第五福竜丸資料館HP
 ・西山明『原発症候群』(批評社)
 ・本田靖春『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)
 ・中国新聞記事(2022.6/20
 ・ドキュメント映画問い合わせ先 FALLOUTPROJECT22事務局 090-3842-2956(事務局・酒 
  井) もしくは、
xyears.info@gmail.com
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