小径を行く 

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。(筆者=石井克則・遊歩)

2272『現代を歩く』(24)「大災害に耐え抜いて!」 先人との対話

 
IMG_0061
(春を告げるマンサクの花が咲いた)

 巨大地震と大津波、さらに原発事故によって平穏な生活を奪われた東北地方の岩手、宮城、福島3県には「苦境」にあって範となる生き方をした先人がいた。宮沢賢治(岩手県花巻市生まれ)、土井晩翠(宮城県仙台市生まれ)、野口英世(福島県猪苗代町生まれ)の3人だ。彼らに共通するのは忍耐力と粘り強さを持ち、努力家だったことだ。それは東北の人々の資質でもある。生きた時代は異なるが、3人の生き方は大災害で苦しむ人たちの大きな支えになると信じたい。

(追記=
2011年3月の東日本大震災の直後のコラム。あれから間もなく12年になる。一方、親日国のトルコの南部でM7.5と7.8という大地震に2回見舞われ、隣国のシリア北部も含めて7500人以上が亡くなった。被害はさらに拡大すると推測する報道もある。厳寒の季節に被災した人々へ世界から支援の手が届くことを願うばかりだ。トルコ大地震の映像を見ていると、3・11を思い出してしまうのは私だけではないだろう) 

にほんブログ村 ニュースブログへ
にほんブログ村
====

農民詩人で童話作家の宮沢賢治は1896(明治29)年8月27日に生まれ、1933(昭和8)年9月21日に37歳の若さで亡くなった。生まれる2カ月前の6月15日には明治三陸沖地震(M8.2~8.5)があり、地震後、波高が最大で38.2メートル(V字型の湾奥の海抜38.2メートルの峠を津波が乗り越えたもので、海岸の津波高ではない)という大津波が発生、2万人以上が亡くなった。誕生から5日目には秋田と岩手の県境を震源地とする直下型の陸羽地震が起きている。さらに亡くなる直前の1933年の3月3日には、昭和三陸沖地震(M8.1)が発生、死者・行方不明3000人以上という犠牲者が出ている。

江戸時代の僧侶で歌人・良寛の研究で知られる北川省一は『宮沢賢治と沙門良寛』という作品の中で、賢治について「わが宮沢賢治は大地震によってこの世に迎えられ、大地震によってあの世におくられた」と書いている。こうした時代背景もあって賢治は地震や冷害、干ばつという自然災害を強く意識しながら短い生涯を送った。

有名な『雨ニモマケズ』の詩は、賢治が亡くなった翌年の1934(昭和9)年2月16日に発見された「病床手帳」の中に、メモとして残されていた。死の床にある賢治からの困った人や病気の人など弱者へのメッセージであり、私は今回の災害に遭遇した被災者を思いやる言葉と置き換えて読み直した。

『荒城の月』(滝廉太郎作曲)の作詞で知られる土井晩翠(本名・土井林吉)は1871(明治4)年10月23日に仙台の旧家で生まれた。詩人、英文学者として名を残した晩翠は、長女と長男を病気で亡くし、戦後には妻に先立たれるという悲運な人生を送った。『荒城の月』は晩翠が旧制第二高等学校(仙台)時代に訪れた会津若松城(鶴ヶ城)を、滝廉太郎は郷里、大分県竹田市の岡城址をそれぞれイメージして作られたといわれる名曲だ。1900(明治33)年、母校旧制二高の英語の教授として仙台に帰り、以後、海外留学の一時期を除き、仙台で教鞭を取りながら、著作に励む生涯を送った。

晩翠の『天地有情』という詩集の中に「希望」という4節の詩がある。以下はその最後の節だ。

港入江の春告げて、
 流るゝ川に言葉(ことば)あり、
 燃ゆる焔に思想(おもひ)あり、
 空行く雲に啓示(さと)しあり、
 夜半の嵐に諫誡(いさめ)あり、
 人の心に希望(のぞみ)あり。

「人の心には希望」があると、晩翠も信じていたに違いない。『天地有情』の詩集の最後の詩は「荒城の月」だった。晩翠はこの詩について「明治卅一年頃東京音樂學校の需に應じて作れるもの(注:東京音楽学校が旧制中学校唱歌の作品応募のために依頼した)、作曲者は今も惜まるる秀才瀧廉太郎君」と記している(「明治文學全集58土井晩翠 薄田泣菫 蒲原有明集」筑摩書房)。仙台に住んでいた若いころ、酒を飲んだ後、仙台の象徴である青葉城に仲間とともにふらふらと行った際によく歌った、思い出の歌でもある。土井晩翠は1952(昭和27)年10月19日に死去した。80歳で、3人の中では一番長寿だった。

黄熱病や梅毒の研究で知られる細菌学者で千円紙幣にも肖像が使われている野口英世は、福島県の猪苗代湖に近い猪苗代町(旧三ツ和村)で1876(明治9)年11月9日に生まれ、1歳のとき囲炉裏に落ち左手に大やけどを負い、左手の指は癒着してしまう。高等小学校時代の教師や同級生の募金で左手の手術が行われ、不自由ながら指が使えるようになる。これをきっかけに野口が医学の道を目指したというエピソードは有名だ。

学業に秀でた英世はその後様々な人たちの援助を受けて医学を学び、世界的な細菌学者になる。作家の渡辺淳一は『遠き落日』という作品で、世界的に著名な偉人としてよりも、挫折を繰り返しながら目的に向かって前進する強い個性の持ち主として英世を描いた。英世の真骨頂は、逆境に置かれても立ち上がろうとする強い精神力だったに違いない。1928(昭和3)年5月21日、51年の生涯に幕を閉じた。死因は自身が研究に傾注した黄熱病だった。

3人が仮に現代に生きていたら、今度の大災害をどのように語るのだろうか。危急存亡のときだからこそ、私は3人の先人と対話をしたいと夢想する。日本という国のあり方、日本人の生き方が問われる大災害に、多くの日本人が自分のできる範囲で支援活動を始めている。いまのような状況にいたなら、宮沢賢治は静かな声で「マケルナ、マケルナ」と言い続け、土井晩翠は「希望を持ち続けなさい」と呼び掛け、野口英世は「大丈夫だ。粘れ、粘れ」と、被災者の皆さんにエールを送るかもしれない。(2011.3.22)
 
 追記の追記

最近の作家、井上ひさし(1934~2010。山形県川西町生まれ、仙台市育ち)も東北を応援する一人だった。宮沢賢治が亡くなった年の11月17日に生まれ、5歳で父親を亡くした作家の井上ひさしは、仙台の児童養護施設で少年時代を送った。仙台はまさに彼の青春の地だった。貧乏だったため、進学した大学を休学して岩手県釜石市の国立釜石療養所(現在の独立行政法人国立病院機構釜石病院)に事務員として勤務したこともあり、宮城や岩手の人々とは深い交流があった。それが、岩手と宮城の県境の架空の村を舞台に『吉里吉里人』という長編小説に結実する。

井上の作品に『四十一番目の少年』という短編小説集がある。児童養護施設で育った自身をモデルにしており、井上作品に多いユーモアとは無縁な暗い世界を描いている。だが、井上はこうした逆境を乗り越え、多くの読者を持つ作家として大成する。彼は「遅筆」で知られていた。良質な作品を書くために、粘り強く机に向かったのだと推察することができる。

井上ひさしは、被災者に「笑顔とユーモアを取り戻して……」と呼び掛けるはずだ。

IMG_0064
 
IMG_0982
(辛い目に遭っても、いつかはこのような美しい空を見ることができるはずだ)