「フィヨルドはどう言ったらよいか。要するに、それはもはやこの世離れしていて、描くことも、叙述することも、ヴァイオリンで演奏することもできない。皆さん、わたしはそれを諦めます。この世のものでないものについて、どんな情報を与えることができようか? 要するに岩ばっかりで、下の方には滑らかな水があり、その水にはすべてが映されている、というわけだ。これらの山々の上には、万年雪が積っており、滝がヴェールのように流れ落ちている。水は半透明でエメラルドか何かのような緑色、そして死か無限のように平静で、銀河のように恐ろしい。
チェコの劇作家でジャーナリストのカレル・チャペック(1890~1938)は旅行記『北欧の旅』(飯島周訳・ちくま文庫)の中で、フィヨルドをこんなふうに書いている。カレンダーと私の部屋の写真を見ていると、たしかに「無限」という思いに浸ることができるのだ。
丿ルウェーは戯曲『人形の家』や『ペール・ギュント』の作者で、近代劇の父とも呼ばれるヘンリック・イプセン(1828~1906)が生まれた国だ。『ペール・ギュント』は、グリーグの組曲でも知られているが、実はノルウエーの多くの人はこの曲を好まず、グリーグの曲としても最悪だという人もいると、この国に1年間住んだ作家の佐伯一麦が小説『ノルゲ』(講談社)で書いている。なぜか。それはこの曲がイプセンの戯曲の付随音楽として作曲されたことが背景にあるというのだ。
戯曲は、没落した地主の子で、大きな夢ばかりを追って母や恋人ソルベーグを悲しませているペール・ギュントが主人公。世界を駆け巡って富をつむが、年老いて帰国の途中難破して無一文になって故郷の山小屋にたどり着き、年老いながら彼を待っていてくれたソルベーグの腕に抱かれて死ぬ——という破天荒な男の物語だ。ノルウェー南東テレマーク県シーエンという港町の豊かな商家に生まれたイプセンは、8歳の時に家が破産したことをきっかけに町の人から冷たくされ孤独感と人間不信を強める。ノルウェーを去って長い間外国で暮らし、晩年に祖国に戻るという生涯を送ったイプセン。「ペール・ギュントはノルウェーに対する怒りが込められた作品なんだよ」(同上『ノルゲ』より)。
グリーグはこの戯曲の付随音楽の作曲を依頼された際、当初は断ったが、ノルウェーの民族音楽をつくりたいと考え直し、依頼を受けたという。完成した作品は第一組曲の「朝」が特に人気がある。この場面は北欧ではなく、北アフリカのモロッコの日の出の情景を描いているそうだ。しかし私はこれを聞くと、北欧のフィヨルドの風景が頭に浮かぶのだ。最初にフルート、続いてオーボエが奏でる牧歌風のメロディーはまさに北欧の情緒といえようか。6月。間もなく北欧は白夜の季節だ。イプセンやグリーグは白夜をどのようにして送ったのだろう。