以前、何回かに分けて「明日は明日の風が吹く」という言葉について、このブログで書いたことがある。できれば、楽しくおかしく日々を過ごしたい。だが、私自身だけでなく、世の中の動きを含め思い悩むことも少なくない。そんな時、「明日は明日の風が吹く」と言ってみる。島崎藤村も『千曲川旅情の歌』(2節)で、似たようなことを書いているではないか。
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藤村は語りかけている。
昨日またかくてありけり/今日もまたかくてありなむ/この命なにを齷齪(あくせく)/明日をのみ思ひわづらふ
意訳すると~。
昨日も何ごともなく過ぎ、今日もまた同じように過ぎて行くだろう。
人生は一度なのにどうしてあくせくとし、明日のことばかり思い悩むのだろう。
この詩の冒頭の「「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ」(小諸の古城近くにたたずみ空を見ると白い雲が浮かんでいて、遠い故郷を懐かしく思い出す~という意味)はよく知られており、何気なく口ずさみたくなる。
小諸(現在は小諸市)は長野県北東部にあり、江戸時代は小諸藩の城下町だった。現在は小諸城本丸跡(懐古園)と千曲川の清流で知られている。藤村は明治32年4月から明治38年まで小諸義塾(私熟。後に旧制中学)の英語と国語の教師を務めており、日常的に小諸城跡と千曲川を目にし、その風景を愛し後世に残る詩を作ったのだろう。
藤村の詩を読んで、近くにあった『山頭火句集』(ちくま文庫)の頁をめくった。風に吹かれて飄々と歩く山頭火の姿が頭に浮かんだからだ。風の句があった。(「山行水行」より)
草にも風が出てきた豆腐も冷えただろう
風がすずしく吹きぬけるので蜂もとんぼも
とはいえ、山頭火自身、のんきに毎日を送っていたわけでない。以下のようなことも書き、読む者を元気付けてくれるのだ。
人間の悩みは尽きない。私は堪えきれない場合にはよく酒を呷ったものである(今でもさういう悪癖がないとはいひきれないが)。酒はごまかす丈で救う力を持つてゐない。ごまかすことは安易だけれど、さらにまたごまかさなければならなくなる。さういふ場合には諸君よ、山に登りませう、林に分け入りませう、野を歩きませう、水のながれにそうて、私たちの身心がやすまるまで逍遥(注=気ままにあちこちを歩き回ること)しませうよ。
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