小径を行く 

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。(筆者=石井克則・遊歩)

3100 梅雨の過ごし方私見 『晴歩雨読』のすすめ

暮らし

(晴耕雨読の人?=千葉県市原市の光徳寺にて)

 歳時記を見ていたら、6月末から7月初めごろは1年で最も雨が降る時期と出ている。梅雨だから当たり前といえば当たり前だが、こうも雨が多くて太陽が顔を見せてくれない日が多いと、やはり憂鬱になる。そんな時には「晴耕雨読」を試してみると、意外なほどリラックスできて、心身のメンテナスによさそう、とも書かれていた。今の時期は読書に向いているころなのだろう。だが、なかなかそうはいかないのが現実ではないだろうか。

……………………………………………………………

 そもそも晴耕雨読なんて言葉は誰が言い出したのだろう。「晴れた日には耕作し、雨の日は読書すること。都会を離れて悠々自適する読書人の理想の生活を表す語」(『新明解国語辞典)という意味で、現代にこのような人はどれほどいるのだろうか。中国の古典からの言葉かと思ったが、そうではなさそうで、語源・出典ははっきりしないという。

 ことわざの辞典には「『耕す』は体を動かして汗を流す喜び、『読』は、頭を働かせる楽しみ。古くは文人が理想とした生活だが、昔も今も、健康と経済的ゆとりがなければ実現できないだろう」(『明鏡「ことわざ成句使い方辞典』」とある。その通りである。

 私はこの言葉から、戦後の一時期、岩手の山村で一人暮らしをした詩人で彫刻家の高村光太郎のことを思わざるを得なかった。光太郎は1945(昭和20)年5月、東京から岩手県花巻町(現在の花巻市)に疎開、終戦後も東京に戻らず、10月から太田村山口(同)に粗末な鉱山小屋を移築して農耕自炊の隠遁生活に入った。この時63歳だった。太平洋戦争当時、戦争に協力する詩を作ったことに対し、自省の念にかられというのがその理由だ。

 文字通り、晴耕雨読の生活だったに違いない。熊にも出会ったこともあったという。光太郎が東京に帰ったのは1952(同27)年10月、70歳の時だった。東京で生まれ育った光太郎が、晩年になってこうした生活をしたことに私は驚く。軟弱な私にはとてもできないことであり、畏敬の念を抱く。

 ヘルマン・ヘッセも晴耕雨読の人だった。庭仕事が好きで『庭仕事の愉しみ』(岡田朝雄訳・草思社)という本まで書いている。この本には、ヘッセの後半生は執筆で費やす以外の時間はほとんど自分の庭で過ごしたと紹介されており、「土と植物を相手にする仕事は、瞑想するのと同じように、魂を解放させてくれるのです」という心境が書かれている。ヘッセの場合、高村光太郎のような農耕生活ではなく、庭に植えた花や木を手入れするのが日課だった。とはいえ、やはり「土」に触れることが無常の楽しみだった。

……………………………………………………………

 私の友人、知人の顔を思い出しながら、晴耕雨読の人はいるのだろうかと考える。何人かの顔が浮かぶ。共通するのは本が好きで、書店通いが日課のようになっている。中には、読んだ本について緻密な所感をまとめる努力家もいる。ただ「雨読」は当てはまるにしても「晴耕」をやっている人は少ない。私も晴耕雨読の生活とはいえず、晴耕の代わりに、ただただ歩くことが日課になっている。それを造語にすれば「晴歩雨読」ということになるだろうか。予報で見る限り、今週も晴れ間の少ない天気が続くようだ。でも、米作りには大事な季節でもあることを忘れてはならない。

光徳寺にはいい顔の五百羅漢像があり、今はアジサイの花が見ごろだ)

 2936 詩人の山小屋暮らし 岩手になじんだ高村光太郎

 1939 ある詩人の晩年 省察に明け暮れた山小屋生活

 2568 樹木との対話の日  喧騒と不安の世界でも……

 ご愛読ありがとうございます。 
 読み終え気に入りましたら、下のバナーをクリックしてください  
  

 にほんブログ村 小説ブログ エッセー・随筆感想へ