小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2044 孫文と株成金の娘のこと 不思議な人とのつながり

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 これはコロナ禍以前に、箱根まで行った際に書いた短いエッセーだ。数年前のことだ。そんな日を振り返り読み返している。この世の人のつながりは、やはり不思議なものがある。私と加藤文子さんもそうだった。詳しい経緯は書かないが、加藤さんは私にとって忘れることができない一人なのである。それまで見たことがないほど白髪が美しい女性だった。こんな時だからこそ、旅のことを考える。

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 日曜朝の東海道線下りは空いていた。東京発の電車は1両に数人の乗客しかいない。だから、向い側の席に座った和服姿の女性がいやでも目に付いた。年のころ40数歳、理知的な顔立ちだ。手にノートを持ってボールペンで書き物を続けている。どこかで見たような顔だ。女性は大磯で下車した。駅名を告げる車内アナウンスで、女性がかつてこの街に住んでいた知り合いと雰囲気が似ていることを思い出した。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」といわれる孫文に赤ん坊のころ抱かれたという人である。久しぶりに懐かしい人の顔を思い浮かべた。小田原で箱根登山鉄道に乗り換え、箱根富士屋ホテルに行くと、そこにも孫文の歴史が刻まれていた。

 このホテルは日本有数のクラシックホテルであり、ヘレン・ケラービートルズジョン・レノンオノ・ヨーコ夫妻、三島由紀夫ら内外の多くの著名人が利用している。孫文もその一人であり、1900(明治33)年4月1日の宿泊者名簿に載っている。それを知ったのは、千鳥破風の屋根と校倉を模した壁に特徴がある花御殿という建物の地下にある史料展示室に、孫文の宿泊に関する雑誌の記事が展示されていたからだ。

 ホテルによると、孫文が泊まったのは白い壁が印象的な本館2階45号室だ。それから32年後の1932(昭和7年)年5月27日には、世界の喜劇王といわれたチャールズ・チャップリンが利用した。昭和史に残る「5・15事件」直後のことだ。この部屋は現在「チャップリンの間」と呼ばれ、壁にはチャップリンが映画で使った山高帽とステッキが飾られている。

 孫文は腐敗した清朝打倒の革命運動を起こし、いまも中国、台湾双方で尊敬されている稀有な英雄の一人である。1895(明治28)年10月、広州での武装蜂起計画が失敗し、香港経由で日本に亡命した。さらにハワイやロンドンに身を移したあと一八九七年再度来日、実業家の梅屋庄吉や思想家、宮崎滔天らの支援で活動を続け、日本は孫文の革命運動の拠点となった。孫文がなぜこのホテルに泊まったのかは分からないが、当時の宿帳には孫文のほか秘書の名前とともに香港からきた中国人、それに浅田ハルという女性の名前が記されていた。恋人だったらしい。

 ホテル内を案内してくれた折田道明さんは「孫文は女性連れで泊まったのですね」という問いに、やや困ったような顔をして「そうですね」と答えてくれた。目鼻立ちの整った孫文は、亡命先の日本でもなかなかモテたようで、中国に戻って宋慶齢と結婚する前には日本人女性と結婚、のちに別れている。

 孫文を支えた実業家の一人に、明治後期から大正期にかけて株相場で大儲けをして、株成金といわれた「鈴久」こと鈴木久五郎がいた。久五郎の一人娘が大磯に住み、私が仕事で知遇を得た故加藤文子さんだ。加藤さんは、1914(大正3)年に生まれ、松竹少女歌劇団を経て戦後はNHKのアナウンサーとなり、その後田村淑子の芸名で女優・声優として活動した。孫文辛亥革命のあと、袁世凱との権力闘争に敗れ、1913年から16年まで日本に亡命しているが、加藤さんは後年、父親から「お前は孫文おじさんに何度も抱いてもらったのだよ」と聞かされたという。

 彼女は夫の遺産のうち5千万円を中国残留孤児の支援活動をしている団体に寄付したが、父親が孫文に多額の援助をしたことを見習ったようだ。大磯に何度かお邪魔し、孫文をめぐる父親の話をいろいろ聞かされた。晩年の加藤さんは髪がすべて白くなった。だが、東海道線の電車で見かけた女性のように和服がよく似合い、品があって話も飽きることはなかった。

チャップリンの間」からは箱根の山がよく見える。115年前、青年革命家、孫文は何を考え窓の外を眺めたのだろう。孫文が泊まったのは4月1日、桜は咲いていたのだろうか。咲いていたとすれば、孫文とハルは春を知らせる花への思いを語り合ったのかもしれない。いまは冬である。私は白い壁の部屋から冬枯れの山を見ながら、この世にいない加藤さんを思い、少しセンチな気持ちになった。

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 写真 早くも咲き始めた葛の花 暑くても、秋が近いことを予感させる。