小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2028 梅雨の終わりに想像の旅 青森キリスト伝説の村へ

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 横光利一の『梅雨』(河出書房新社『底本 横光利一全集第13巻』)という文章を読んだ。戦前の1939年に書かれた短い随筆だ。前年の梅雨について触れ、曇天が続いたこと、鶯が庭の繁みで鳴き続けていること、青森経由で北海道に行ったことなどが書かれている。青森にはキリストが住んだという村があるという記事を読んだこと思い出した横光は、途中でキリストそっくりの人物に出会った話も書いている。今年の梅雨明けも近いが、コロナ禍が続いているから、横光の文章を読みながら私も想像の旅をしてみようと思う。

『梅雨』によると、横光は川端君(担当の編集者か)と2人で奥羽本線に乗り青森に向かい、途中浅虫温泉で一泊した。その車中、八戸で崇神天皇(すじんてんのう。記紀によると、第10代天皇)時代にキリストが八戸にやってきて住み着き、ここで亡くなり、墓もあるという記事をある雑誌で読んだことが話題になった。2人はその荒唐無稽さに驚くとともに、このような夢を持たなければ生きられなくなった現代人の頭(精神構造のこと)について興味を持って話し合った。

  翌朝、浅虫から汽車に乗ろうとすると、待合室にいた多くの小学生に交じり用務員(原文は小使い)らしい詰襟の老人が弁当を持ってベンチに腰を下ろしている姿があり、その顔はキリストそっくりだった(ブログ筆者注。キリストの顔を私は知らない。さまざまな絵などから想像するだけだが、横光は老人の雰囲気からそう思ったのだろうか)。川端君は持っていたカメラで老人を撮影しようとしたが、気の毒だからとやめてしまい「不思議だねえ」と言った。この時、撮影していたなら、それを見た人は弁当を持ったキリストと思うかもしれない、それほど似ていた……と横光は書いている。

 この後、横光は「人間は荒唐無稽なものでも考えてをれば、だんだんその無稽が事實となってゆくといふ説があるが、(中略)八戸でキリストが死んだといふ説も、重苦しい梅雨の曇天の下では美しいひとつの現實の姿とならぬとも限らない。いや、現に八戸とあまりへだてぬ浅蟲の驛で、あやふく私もまたキリストの夢を見たのである。川端君もまたさうだ」と続け、北海道の伝統はキリスト教だと感じた印象を記している。

 横光のこの随筆は1939(昭和14)年7月1日発行の「大陸 第2巻第7号」に掲載された。実際のキリスト伝説は八戸ではなく、内陸にある十和田湖寄りの三戸郡新郷村(旧戸来村)に残っている。同村のホームページには「キリストの墓」と題して、概要以下のような説明が載っている。

《「ゴルゴダの丘磔刑になったキリストが実は密かに日本に渡っていた」そんな突拍子もない仮説が、茨城県磯原町(現北茨城市)にある皇祖皇大神宮の竹内家に伝わる竹内古文書から出てきたのが昭和10年のこと。竹内氏自らこの新郷村を訪れ、キリストの墓を発見した。1936年に考古学者の一団が「キリストの遺書」を発見したり、考古学・地質学者の山根キク氏の著書で取り上げられたりして、新郷村は神秘の村として人々の注目を浴びるようになった。キリストの墓と弟のイスキリの墓であるかは判断を預けるとしても、新郷村にはいくつかのミステリーがある。戸来(へらい)はヘブライからくるという説。父親をアヤまたはダダ、母親をアパまたはガガということ。子供を初めて野外に出すとき額に墨で十字を書くこと。足がしびれたとき額に十字を書くこと。ダビデの星を代々家紋とする家があること。そして、「ナニヤドヤラー、ナニヤドナサレノ」という意味不明の節回しの祭唄が伝えられていること…》

 ホームページに出てくる竹内文書は、古代の豪族、平群真鳥(へぐりのまとり。生年不詳~498)の子孫であるとされる竹内家に養子に入ったと主張する竹内巨麿(たけうちきよまろ)が公開した文書で公開後物議を醸したが、専門家によって古代文書を装った偽書だと断定されている。現在、キリスト伝説は、「キリストの里公園」や「キリストの里伝承館」を備えた神郷村の観光資源になっているそうだから、荒唐無稽と書いた横光もあの世で驚いているに違いない。ただ、これも村おこしの一例と思えば、目くじらを立てることはないか。

  写真 オニユリの季節になりました。