小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1451 「理想の音を求めて」 ピアノ調律師を描いた2冊の本

画像ピアノの調律師を描いた2冊の本を読んだ。熊谷達也『調律師』(文春文庫)と宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋)である。わが家にもほとんど使われなくなったピアノがあり、調律もだいぶやっていない。以前は身近な存在だった調律師もかなり遠い存在になった。調律師は歌舞伎や文楽の黒子と同様、裏方的な存在だが、重要な役割を持っている。2冊の本は、妻を交通事故で失った元ピアニストの調律師(熊谷著)と、調律に魅せられてその職業を選んだ青年(宮下著)が主人公として音を通じて巡り会った人との交流を軸に、あまり知られていない調律師の世界を描いている。 『調律師』には「嗅聴」という耳慣れない言葉が出てくる。この作品の主人公は、「色聴」という感覚を持っていた。音を聴くと色を感じることができる知覚のことだが、絶対音感(ある音の高さを他の音と比較せずに識別する能力)を持つ人はこの知覚を持つ割合が高いのだという。だが、彼は妻とともに交通事故に遭い妻を亡くしたあと色聴感覚を失う一方、妻が持っていた「嗅聴」を得る。この感覚はピアノの音からにおい(悪臭から芳香まで)を感じる共感覚なのだという。現実にはこうした「嗅聴」の持ち主は考えられないから、造語といっていいだろう。 物語は後半で東日本大震災へと進んでいく。コンサートホールで調律途中、震災に遭遇した主人公は妻の形見だったチューニングハンマーをなくし、ステージから転落して頭を打ち、共感覚もなくなる。それでも、彼は新しい音の世界と出会うのだ。 一方、『羊と鋼の森』は、高校にやってきた調律師の音を聴いたが主人公が調律の道を目指す物語だ。双子の女子高校生との交流がストーリーの軸になっている。調律とは何なのだろう。簡単にいえば、ピアノの音程を調整することだが、さまざまなメンテナンスも含まれる。それは調律師にとっては、理想の音を求める作業でもある。文中には調律師の理想として作家・原民喜(1905~1951)の『砂漠の花』という短いエッセーの中の文体に関する言葉が引用されている。 《明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体……私はこんな文体に憧れている》 「文体」を「音」に置き換えれば、調律の理想を語っているととらえることができる。北海道の山育ちの青年がこの言葉を糧に、調律師としてどのように成長していくのか。清冽な流れを思わせる筆遣いが読後の清涼感を呼ぶ。宮下もまた、この作品で原民喜の言う文体を目指したのだろう。ただひた向きに理想の音という高嶺を目指す青年の姿に、自身の青春時代を重ねる読者がいるかもしれれない。