小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1447 言葉との格闘 乙川優三郎の現代小説

画像乙川優三郎といえば、時代小説の作家と思っていた。『五年の梅』や『生きる』という本は私の本棚にもある。その乙川が現代小説にも筆を染めている。最近、そのうち『脊梁山脈』など3冊を集中して読んだ。文芸評論家・作家の丸谷才一は『文章読本』(中央公論社)の中で、「文章上達の秘訣は一つしかない。名文を読むことだ」と言い切っているが、乙川の文章はまさにそれに当てはまる。 『脊梁山脈』(新潮文庫) 乙川の初めての現代小説だという。復員する列車の中で体調を崩した主人公は、同じ復員兵に救われる。主人公は様々な経緯をへたあと、自分を助けてくれた男が木地師であることを知り、彼を探して信州や東北の奥地を回り、木地師の伝統文化に入り込んでいく。平易で静かな筆致でつづられた作品。主人公を通じて戦後史を振り返り、日本人のルーツを考えさせられる。 『トワイライト・シャッフル』(新潮社) 13の短編は房総半島の海辺の街が舞台。街の住人と街を訪れた人のストーリで、2編を除き主人公は女性である。作品に描かれた男性は輝きを失っているが、外構屋の男の人生を描いた「私のために生まれた街」が私は気に入った。主人公の外構屋の生き方がいぶし銀的なのだ。13編ともそれぞれの設定がきめ細かく、無駄はない。「人生はほろ苦い」と感じるのである。 『ロゴスの市』(徳間書店) 大学で知り合った男と女。男は翻訳家となり、女は同時通訳者として言葉と向き合う職業を選ぶ。言葉と格闘する男女の人生、その結末が切ない。 作中に出てくる次の文章は文学や翻訳、通訳の在り方を簡潔に示している。 「世界の現実は無数の人生のシャッフルで作れられているような気がします。たとえ小さな島に生まれても大きな現実の渦に巻き込まれずにはいられません。文学とはそういう個々の人生を掬い上げて世界の一部であることを知らしめることではないでしょうか、言い換えるなら世界に響く声を持たない人の通訳です」 「言語は素晴らしいものだけど、排他的な側面もあります、風を通すことができるのは通訳と翻訳家でしょうね、作家はその原形を示すために苦しむ原始的な通訳かしら……」 本を読んだ後、余韻に浸ることができる作品はそう多くはないが、乙川作品はその例外だ。昨年夏芥川賞を受賞し大ベストセラーになった又吉直樹『火花』、又吉と芥川賞を同時受賞した羽田圭介の『スクラップ・アンド・ビルド』は、残念ながらそうではなかった。