小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1446 洛外人の徹底批判 井上章一『京都ぎらい』

画像1781年(明和元年)に書かれた二鐘亭半山(木宝卯雲)の京都見聞録『見た京物語』には「花の都は二百年前にて今は花の田舎たり、田舎にしては花残れり」という記述がある。「花の田舎」というのが江戸時代中期の京都のイメージである。それから235年が過ぎた京都はいま、アメリカの大手旅行雑誌が選んだ「訪れたい世界都市ランキング」の1位になったと報じられ、海外からの観光客でにぎわいを見せている。その京都を徹底的に批判したのが井上章一著『京都ぎらい』(朝日新書)である。 井上は京都にある日本文化に関する総合研究と日本研究者に対する研究協力を行うことが目的の大学共同利用機関国際日本文化研究センター教授(副所長)で、建築や日本文化、風俗に関するユニークな視点の著述で知られている。井上自身は京都市右京区で生まれ、5歳から同じ右京区の嵯峨で育ち、現在は京都府宇治市に住んでいるという。京都以外の人間から見れば、立派な京都人だと思うのだが、それは違うらしいのだ。 井上の京都ぎらいはこんなところからきているという。学生時代(京大建築学科)、町屋の研究をするゼミに所属し、下京区綾小路にある有名な杉本家の調査に行った。9代目当主(当時)は文芸評論家・仏文学者の杉本秀太郎(1931~2015)で、杉本は「君、どこの子や」と聞き、井上が嵯峨から来たと答えると、「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥(人糞を肥料にしていた)をくみにきてくれたんや」と話した。これを聞いた井上は、杉本が嵯峨の子か田舎の子なんやなと思っている、と受け止めたというのである。 杉本は『洛中生息』(ちくま文庫)という名随筆集を残しており、井上は「『洛中生息』の4文字を見ただけで洛外生息者の私はひがみっぽくなってしまう」とも書いている。のちに民族学者の梅棹忠夫(1920~2010)にも「あのへんは言葉づかいがおかしかった。僕らが中学生ぐらいの時には、まねをしてよう笑いおうたもんや。(中略)杉本秀太郎がそんなふうに言うのも、そら、しゃあないで」と言われたエピソードも描かれている。洛中の京都市上京区生まれの梅棹の話に対する感想を「京都人の中華思想」まで持ち出し、嫌味を書いているから、梅棹に笑われ、相当ひがんだことがうかがえる。 ちなみに洛中というのは、豊臣秀吉が天下統一後、京都の街を囲むように御土居と呼ぶ土塁の壁をつくった内側のことである。外側は洛外とし、御土居に7カ所の出入り口を設けて人々を検分したという。洛中は、北大路、西大路、九条、東大路(東山)の各通りに囲まれた範囲とされており、井上によれば、洛中の人々には「京都=洛中のこと」という意識があり、嵯峨育ちの井上にはそれが面白くない。 そうした洛外者としての前提に立ち、井上はこの本の中で京都の影の部分を皮肉たっぷりに描き出す。祇園に繰り出す僧侶たちの実態や拝観料で潤う寺院の姿などである。さらに天皇が京都から東京に移った(遷都の詔書は出されていない)明治維新と京都との関係にも筆が及びんでいる。明治維新は無血革命に近いという見方もあるが、井上は、倒幕戦争は京都だけでなく越後、会津、東北諸藩に及び、殺戮劇をもたらしたと書き、「日本の近代も残虐な好戦性をともないつつ、民族精神を高ぶらせていった」と指摘している。明治維新によって京都が荒れ果てた街になったことも周知の事実である。 「あとがき」で京都の人たちが七を「しち」ではなく「ひち」と言うこだわりについて触れているのも面白い。本文中にも「上七軒」という地名が登場する。井上の持論では「かみひちけん」とすべきところである。だが、編集部によって初校の段階では「かみしちけん」というルビがふられていたと暴露している。その結果はどうなったか、その内容はここでは書かない。(なかなか工夫したものです) この本を読み始めて当初、あまりに多い京都の悪口にへきえきし、著者の性格を疑い、洛中者に対するコンプレックスの塊なのではないかという印象を抱いた。しかし、読み進めていくうちその疑念は少しずつ晴れてきた。たしかに著者はへそ曲がりなのかもしれない。だが京都のいやらしさを感じているむきには、この本はそれを代弁してくれるもので、数ある京都論の中でも異彩を放つ作品といえる。ただし、京都好きにはお薦めできない。 追記 杉本秀太郎の『花ごよみ』(講談社学術文庫)は私の座右の書の一冊だ。日本の四季に咲く132の花についての随想集で、名著である。杉本は京都女子大教授を経て井上と同じ国際日本文化研究センター教授を務めた。