小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1418 画家フジタが生きたパリ 喜びと悲しみを内包した芸術の都

画像
映画「FOUJITA」は、フランスを中心に活動した画家、藤田嗣治(1886~1968)の半生を描いた日仏合作の作品だ。監督は小栗康平、主演はオダギリ・ジョー。藤田といえば、オカッパ頭とロイドメガネで知られ、1820年代のパリで日本画の技法も取り入れた「乳白色の肌」の裸婦を描いて注目を集め、エコール・ド・パリ(20世紀前半、世界各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的生活をしていた画家たちのこと)の寵児になった。 帰国後、太平洋戦争が起きると、陸軍美術協会の会長にまつりあげられ「アッツ島の玉砕」などの戦争画を描き、戦後強い批判を受ける。そのため居場所を失った藤田は69歳の1949年に日本を離れてフランスに戻って帰化、さらに73歳でカトリックの洗礼を受けレオナール・フジタとしてパリ近郊の地方都市エソン県ヴィリエ・ル・パクルの古い家でアトリエを構え、ここで生涯を送る。 映画は絶頂期のパリでの華やかな生活(社交界も含めて)と帰国後の暗い生活を対照的に描き、画家としての藤田の光と陰を映し出している。後半の日本編はやや難解だ。地方で妻との疎開生活が中心に描かれ、その自然風景は美しく印象的な巨木も登場する。里山の炭焼きや狐が人を化かす話が出て来て、幻想性を帯びてくる。CGを使ったらしい狐まで登場させるが、それが藤田の芸術とどうつながるのかよく分からなかった。 藤田は戦後、戦争協力者のレッテルを張られて日本を去るが、このとき「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」という言葉を残したという。フランスに戻ってから、パリを離れた藤田は晩年「平和の聖母礼拝堂」(シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペ、通称シャペル・フジタ)」という小さな礼拝堂に90日をかけてキリストの誕生から復活までの壁画を描いた。藤田としては初めてのフレスコ画(漆喰を壁に塗り、乾かないうちに水性の絵の具で直に絵を描く技法)であり、こうした宗教画の大作に挑んだのはカトリックに改宗した精神の発露といえよう。 残念なことに、映画では日本を離れたあとカトリックに帰依した藤田の姿は取り上げられていない。私はそれが物足りないと感じた。 つい先日(現地時間13日夜、日本時間14日早朝)、パリ市内の7カ所で同時多発テロが発生、死者129人、350人以上が負傷という大惨事になった。イスラム過激派組織・ISの犯行だった。歴史を振り返ると1789年のフランス革命や1871年の民衆蜂起(パリ・コミューン)なども含め、パリは血のにおいが漂う街だ。第二次大戦ではナチスに占領され、ヒトラーがパリ破壊作戦を指令し、危機を迎えた。ドイツのコルティッツ将軍が命令に従わず、破壊から免れたが、芸術の都パリは喜びと悲しみを内包した歴史の街といえる。 追記 ISとの戦いは残念なことに長引くのではないか。それは人間の心が絡んでいるからであり、力の対決では解決は困難だ。人類の長い歴史を見ればそれは間違いないと思われる。人類の英知はどこにいったのか。 1346 過去と向き合う姿勢 「パリよ永遠に」とメルケル首相来日 1395 これが安藤忠雄の真骨頂? 藤田嗣治壁画の秋田県立美術館 1397 地球の裏側にやってきたペルーの宗教画 藤田嗣治が持ち帰ったクスコ派の作品