小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1388 繰り返してはならない「日本の一番長い日」 8月15日を前に

画像70年前の今ごろ、日本は太平洋戦争末期の断末魔状態にあった。それでも、旧陸軍を中心とする軍部は「一億総玉砕」を唱え、本土決戦を主張した。極限状況下にあって、人間は狂気に陥る。映画『日本の一番長い日』を見て、それをあらためて感じた。

戦争を終結するためにはどうすべきか。鈴木貫太郎を首班とする内閣は和戦派と戦争継続派に別れて閣内が一致せず、鈴木貫太郎天皇に判断を仰ぐ「聖断」の道を選ぶ。いま安保法制をめぐって、日本が再び戦争への道へと入り込むのではないかと不安を抱く人は少なくない。そんな状況下に上映されたこの映画を見て、70年前の出来事と昨今の世相を重ね合わせてしまった。

高橋紘著『人間昭和天皇』(講談社、上下)は、昭和天皇の生涯を追った上下2冊の長編だ。著者は皇室問題をライフワークにした共同通信社の記者だった人で、静岡福祉大学教授も務めたが、がんが見つかり末期を宣告された。死の病床におびただしい資料を持ち込み、この作品を書き上げ、2011年9月30日亡くなった。それは凄絶な執筆風景だったと、知人は語っている。

70年前の8月15日正午からラジオによって戦争の終結ポツダム宣言受諾を告げる天皇玉音放送があった。その内容については多くの資料によって明らかになっている。では録音当時はどうだったのだろう。この本にその状況が記されている。

《昭和20年(1945)8月14日深夜、2期庁舎(宮内庁)2階の政務室で翌日放送予定の『終戦詔書』の録音が行われた。1回目は緊張し、声に震えがあり、『お言葉に不明晰なところがあった。天皇は『声が低かったようだ。録り直しをしよう』と下村(下村宏情報局総裁)に言った。それで2回目の録音となった。(中略)天皇は『お言葉』を読むとき、いつも緊張する。戦後になってもずっと、読む前には侍従に命じてテープに録音させ、2度、3度と練習する。まして今回はこれまで読んだことのない内容だった。御文庫で放送用の詔書を受け取ると、薄暗い灯りの下で数回、下読みをして録音に向かっている》

この後、無知な将校たちの反乱があり、録音テープを奪われかねない事態となったが、かろうじてそれは回避され、天皇玉音放送が始まる。映画でも天皇が自身の放送を聞く場面があるが、高橋はそれを以下のように記した。

《8月15日、天皇は午前6時40分起床。三井安侍従が事件経過(将校たちの反乱)を報告し、蓮沼武官長と田中司令官(田中静壱東部軍管区司令官、8月24日に自決)があらためて奏上した。地下会議室で枢密院本会議が開かれ、午後1時25分終了した。正午前会議を一時中断し、天皇は会議室隣の休所に入り、RCAのポータブルラジオに向かった。顧問官は会議室外の廊下に整列、藤田侍従長は会議室で侍立し、小出、徳川の2人が控えた。徳川がアンテナを長く延ばすなど事前に調整したおかげで、全員がよく聴こえた。正午、あの独特な天皇の声が流れた。玉音放送は雑音が多くて『聴取不能』というところが多かった》

戦争が終わって70年。戦後を生きてきて、私にとって一番長い日は2011年3月11日のあの日だった。未曽有の大災害だけでなく福島の多くの人たちの故郷を奪った原発事故は、戦後の日本史の中でひときわ重い比重を占めるだろう。

一方、私の親の世代は戦争によって幸福を奪われ、悲嘆の日々を送った。玉砕・飢餓地獄、特攻作戦、東京大空襲をはじめとする各地への空襲、沖縄の悲劇、広島・長崎への原爆投下と続き、無条件降伏しかない状況の中で、「一億総玉砕」を叫んだエリート将校たちはそうした国民の嘆きに気が付かなかった。

「暮るるまで蝉鳴き通す終戦日」下村ひろし(長崎出身の医師、俳人。医師として長崎原爆被爆者の救済に当たった)

ことしの夏も、蝉の鳴き声は朝から夕方まで聞こえてくる。それだけは変らない……。