小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1350 「散った桜散る桜散らぬ桜哉」 上野公園を歩く

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花びらが散りはじめ、「葉桜」になりつつある上野公園を歩いた。報道の通り、雨にもかかわらず公園には中国人をはじめとする外国人の姿が目についた。いつから外国人がこの公園の桜に興味を持つようになったのかは知らない。しかし、花を愛でる気持ちは人種を超えたものなのだろう。 いつごろから上野の山には花見の人たちが集まるようになったのだろう。上野には徳川家の安泰と江戸城鎮護のため天海僧正によって寛永2年(1625)に寛永寺が建立され、境内に桜が植樹された。それが寛文年間(1661~72)には上野の山全体に拡大したとみられる。『桜信仰と日本人』(青春出版社・田中秀明監修)によると、寛文の後の延宝5年(1677)に出た江戸の名所案内の本『江戸雀』には、上野の花見の風景が詳細に記されているそうだから、約340年前ごろから、上野の春はにぎわっていたようだ。 上野の地名の由来についてはさまざまな説があるという。 元共同通信記者で民俗研究者の筒井功氏は、著書『東京の地名』(河出書房新社)のなかで「いちばん妥当な説は、いまの上野駅の北西側、上野動物園などがある小高い丘(いわゆる上野の山)によるとの指摘ではないか。(中略)一方、『上野』の地名の初見は戦国期であり、このころから上野の呼び名が定着しはじめたようである。江戸初期には『上野村』の正式村名が成立していた。現在、台東区上野の中心は丘の南側になっているが、これは17世紀の前半、徳川氏の菩提所、寛永寺を台地上に創建するため上野村の住民を麓に移した結果である」と記している。 上野は明治維新の際、慶応4年5月15日(1868年7月4日)、旧幕府軍彰義隊と長州・薩摩が中心の新政府軍との間で「上野戦争」(彰義隊が敗北し一日で終結)があった場所でもある。公園の入り口には明治維新の立役者で後に西南の役で新政府と戦って死んだ西郷隆盛の愛犬をひく銅像が建っていて、歴史の不思議な巡り合わせを感じる。 俳壇の巨星・正岡子規「散った桜散る桜散らぬ桜哉」という句がある。コラムニストの天野祐吉はこの句を「散った人、散る人、まだ散らぬ人。ま、だれもがしょせん散る身なら散り急ぐことはないさ」(ちくま文庫・笑う子規)と解説している。そういえば選良たる国会議員には、昨今「まだ散らぬ人」が多すぎるようだ。
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写真 1~3 上野公園の桜 4 東京芸大の桜 5 護国院大黒天境内の桜