小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1344 戦争は人間の所業の空しさ 戦艦武蔵発見に思う

画像戦艦「武蔵」が米軍の攻撃で沈没したのは1944年10月24日のことである。それから既に70年が過ぎている。米マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン氏がフィリピン中部のシブヤン海でその武蔵を発見したとインターネットのツイッターで写真や動画を掲載した。武蔵に間違いないとみられる。吉村昭記録文学戦艦武蔵』(新潮社)を本棚から探し出し、あらためて頁をめくった。 武蔵は全長263メートル、排水量6万5千トンの巨大戦艦で、1938年3月から三菱重工長崎造船所で建造が始まり、42年8月から就役した。巨艦としては広島・呉海軍工廠で建造した大和に次ぐもので、吉村昭は、作品で巨艦建造の様子や撃沈される戦況について冷静な筆致でつづっている。 武蔵沈没直後の状況について、吉村は次のように記している。 ≪武蔵をのみこんだ引退海面には為体の知れぬ轟きとともに巨大な渦とはげしい波が湧き起った。海上に漂う人間たちの体はたちまち渦の中に巻きこまれ、回転させられて海面にあおり上げられると、また渦の中に沈み込んだ。突然海中で大爆発音が起こった。人々の体は海水とともに夕闇の空高くはね上げられた。海底深く一面に鮮烈な朱色の光がひろがった。ボイラー室に海水が流れ込んで爆発したのか、水蒸気の走るような音が、あたり一帯に走った。その爆発で渦がわれたらしく、巨大な渦は小さな渦の群れに分散して、波立つ海面に人の頭部が回転しながら所々浮かび上った≫ 当時、武蔵の乗組員は2399人で、生存者は1376人しかいなかった。その生存者たちは、秘密保持を重視する海軍中枢の考えによって過酷な道を歩むことになる。海から救助された乗組員たちは大部分が下半身が裸、全員が素足のままの姿でコレヒドールの山腹の仮の兵舎に隔離されるように収容され、その後いくつかの集団に分けられた。 そのうち420人はマニラから輸送船に乗って台湾・高雄に向かうが、バシー海峡で潜水艦の魚雷攻撃に遭遇、船は轟沈、海中に投げされた。生存者は120人しかいなかった。高雄の警備隊に編入されたあと、半分以上が内地に送られ、瀬戸内海の小さな島で軟禁に近い生活を送った。 別の隊の200余人は、空母で日本に送還途中、潜水艦の攻撃を受け、空母の艦体が傾いたまま佐世保にようやくたどり着く。佐世保から呉、久里浜へと移され、仮の兵舎で監視下に置かれた。 残りの620人はそのまま現地に残され、うち146人はマニラ防衛部隊と南西方面艦隊司令部に配属された。45年2月、マニラに進出した米軍と激戦となり、117人が戦死または行方不明になった。1組30数人に分けられた地区隊もほぼ全滅。クーラーク飛行場に配置された320人は、1人を残して玉砕している。 この作品について、同じ作家の丹羽文雄は「戦況や敢えない終焉が饒舌を避け、感情を抑えた筆で綴られたことで、かえって鮮烈に描き出され、戦争(人間の所業)の空しさを象徴的に浮かび上がらせている」と、評した。 ことしは戦後70年。安倍政権が予定している「戦後70年談話」が注目を集めている中、武蔵発見のニュースは、「戦争という人間の所業の空しさ」を考える機会を私たちに与えてくれている。 姉の知り合いに戦艦武蔵に乗り組み、生還した人がいる。その人のインタビューの載った小冊子の紹介をこのブログに書いている。以下にリンクする。 『神様は海の向こうにいた』再出版! 戦艦武蔵乗組員の証言(1) 神様は海の向こうにいた』  戦艦武蔵乗組員の証言(2)