小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1324 津波で亡くなった息子供養の観音像 友人のブログから

画像東日本大震災で、息子2人を亡くした仙台市宮城野区の父親が自力で観音像を建てたという話を友人がブログで紹介している。「舟要観音(しゅうようかんのん)」という2人の名前が由来という観音像には、「2人の息子さんや同地区の300人余の犠牲者に対する慰霊というだけでなく、人々の暮らしの記憶が刻まれたふるさと・蒲生の再生への願いが込められている」と友人は記している。東日本大震災から3年9カ月、復興の道のりが険しい中、被災地は厳しい冬を迎えている。

以下、友人のブログ「震災日誌 in 仙台」から観音像の話を紹介する。

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「12月17日 仙台市蒲生 ”津波で2人の息子が犠牲に” 慰霊と地域再生の願いこめ 観音像を独力で建立」

仙台市宮城野区蒲生の干潟にほど近くに、このほど高さ4メートルの観音像が建立された。笹谷由夫さんが津波で流された自宅跡に独力で建てた。台座から2,1メートルの高さの観音様が穏やかな表情で海の方向を向いて立つ。名付けて「舟要観音(しゅうようかんのん)」。

3・11の大震災。自宅にいた長男の舟一(しゅういち)さん(当時・20)、次男の要二(ようじ)さん(当時・19)が津波にのまれて亡くなった。二人は近くに住む77歳の叔母の家に向かったと後で知った。一人暮らしで体が不自由だった。助けようとして逃げ遅れ、叔母ともども津波に流されたと笹谷さんは考えている。

2人の息子を弔うのが名前の由来だ。今日、笹谷さんと会い、胸の内を聞いた。

3・11、蒲生地区では300人余が津波の犠牲となった。他の地区に比べ、犠牲率は多い。笹谷さんは昭和40年代にすすめられた仙台新港の開発が原因ではないかと感じている。現に被災した住民は津波は3方向から襲ってきたと証言する。東側の海岸からのもの、南側の七北田川の堤防を越えた津波、そして北側の仙台新港方面から押し寄せた津波だ。

仙台新港は海岸を内陸側に深く掘りこんでつくられた。これがなければ津波の犠牲者はもっと少なかったはず、笹谷さんはそう考えている。津波がどんな方向から蒲生地区を襲ったのか。300人余の犠牲者はどんな状況で亡くなったのか。

仙台市はこうしたデータを示さないまま、蒲生地区を災害危険区域に指定した。戸建てだけで20数世帯の住民が現地で再建・居住うしているにもかかわらず、居住を禁止した。加えて、区画整理事業を実施することにした。宅地や、公有地が混在するのを用地を集約し、企業誘致しやすい用地を生み出すためだ。

笹谷さんは住民の意向を無視した行政側の”復興策”に反対。「北蒲生のまちづくりを考える会」の代表を務めている。笹谷さんの宅地、200坪は区画整理の対象地区からは外れた。しかし、災害危険区域であることに変わらず、居住はできない。高さ6、8メートル、七北田川の河川堤防の敷地となっている。しかし、決して所有地を行政には売り渡さないと笹谷さんは言い切る。

観音像の脇には広さ20平方メ-トルほどの小屋も建っている。笹谷さんが手作りで完成させた「舟要庵」だ。少人数の会合を開くのに充分の広さだ。敷地内には近く、300平方メートルほどのビニールハウスも建てられる。蒲生の歴史や被災体験を継承する施設となる計画だ。

観音さん、少し顔がおおきいという声もある。しかし、笹谷さんは穏やかな顔は心を落ち着かせてくれるという。観音像と「舟要庵」などの施設には、2人の息子さんや300人余の犠牲者に対する慰霊というだけでなく、人々の暮らしの記憶が刻まれたふるさと・蒲生の再生への願いが込められている。笹谷さんの決意は固い。

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「日本の七十二候を楽しむ」(東邦出版)によれば、いまごろの季節は「大雪・末候」の「鱖魚群がる」(海で育った鮭が群れをなしてふるさとの川に帰ってくるころ)といわれる。北日本日本海側の地方を中心に寒波のため、大雪が降った。年末年始は穏やかな天気になることを願っている。

震災日誌 in 仙台