小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1307 バイヨン寺院の出来事 悲劇のアンコールワット

画像ことしも帰化植物、セイダカアワダチソウの黄色い花が咲く季節になった。散歩コースの調整池の周囲には、天敵のススキと共存共栄している姿が見られる。こんな風景の中を歩いていると旅をしたくなる。旅といえば1年少し前、カンボジア世界遺産アンコールワットに行ったが、この遺跡をめぐって小さなニュースが流れた。アンコールワット遺跡のバイヨン寺院で、観光客のニュージーランド人の女性が仏像を破壊したというのだ。 こんな話である。女性は今月9日にアンコールワットを訪れた。夜になっても戻らないと女性を乗せたタクシー運転手が通報し、10日朝、バイヨン寺院にいるところを遺跡職員に発見された。警察が取り調べた後女性を釈放すると、寺院の高さ約1メートルの仏像が粉々になっているのが見つかった。女性は言語学の博士号を持ち、大学職員だったこともあるといい、仏像を押したことを認め、「寺院に入ると声が聞こえた、お坊さんや人々が散らかしたので掃除しなさいと指示された」と話し、既にウェリントン(NZの首都)の自宅に戻っていると地元のメディアは伝えている。それ以上のことは分からない。 アンコールワットは、ヒンドゥー教寺院としてアンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって12世紀前半に建設された。バイヨン寺院は、アンコールワット遺跡の一つを形成するアンコール・トムの中心部にあるヒンドゥーと仏教の混交の寺院跡で、名前は「美しい塔」からきている。アンコール王朝の中興の祖と言われ、クメール王国初の仏教徒の国王だったジャヤバルマン7世(在位1181~1220年ごろ)がチャンパ(ベトナムにあった王国)との間の戦勝を記念して12世紀末ごろから造成を始めたといわれ、アンコールワットよりも時代は新しい。 ジャヤバルマン7世の全盛期のアンコール王朝はベトナム南部からラオス、タイ、マレーシア半島北部まで領土が拡大したという。だが、栄枯盛衰の言葉の通り、シャム(現在のタイ)によって滅ぼされ、アンコールワットは1432年に放棄されてしまい、人々の目に触れることなく長い時間が過ぎる。 1860年になってインドシナ半島を探検していたフランスの植物学者アンリ・ムオが、カンボジアの北西部にあるシエムリアップで地元民から「近くの密林の中に巨大な都がある」と聞き、森の中へ入っていくと、話の通り彼の目の前に壮大な遺跡が現れた。ムオよりかなり前にポルトガル人や日本人も訪れたといわれるが、広く世界に知られるようになったのは、ムオの紹介によるものだ。アンコールワットの遺跡は盗掘被害もあった。 フランスの政治家で「人間の条件」を書いた作家のアンドレ・マルロー(1901―1976)は1923年、密林の中にあったバンテアイ・スレイからデバター像(女神)を盗んで逮捕され、この事件を基に「王道」という作品も書き、後年、政治家としてドゴール政権で長く文化相を務めている。盗掘だけでなく内戦による破壊と損傷、自然の風化で一時は危機的状況になった。しかし、国際的な支援もあって復元作業が進み、マチュピチュと並んでアンコールワットは世界的な観光地になった。そんな中でのバイヨン寺院の事件は、残念でならない。 「砂の如き雲流れ行く朝の秋」(正岡子規 写真 1、バイヨン寺院の人面像(4面像) 2、咲き誇るセイダカアワダチソウ 3、バイヨン寺院
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