小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1258 hana物語(2) 第1章 思い出の日々 病に倒れて

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動物病院でhanaの肝臓に腫瘍が見つかった翌日から、エサは医師の指示で少量ずつを4、5回に分けて食べさせ始めた。しかしドッグフードをエサ用の容器からでは食べようとせず、私たち家族の掌に乗せると、少しだが食べてくれた。散歩にも出る気力はあるが、足元がおぼつかないためその距離は家の周辺200メートルくらいと短い。この1日後、私と妻は子どもたち(2人の娘とその家族)にhanaを任せ、以前から予定していたベトナムカンボジアの旅に出た。

行くかどうか迷った末、7月6日朝、子どもたちに送り出されて成田空港へと向かったのだった。その直後、hanaに異変が起きていた。出国審査が終わり、飛行機に乗り込む直前、自宅に電話をすると、hanaがまた食べたものを全部吐いてしまったというのである。留守番にやってきた長女から「何とかするから、行ってらっしゃい」といわれて、飛行機に乗ったのだが、不安な気持ちは消えなかった。

最初の旅の目的地、ハノイに着いたあと、スカイプで自宅と連絡を取ったが、hanaの詳しい様子は分からない。メールでも娘たちは何も書いてこない。心配するだけだからという配慮だったのだろう。だから、私たちはその後小康状態にあるのだと勝手に想像し、旅を続けた。だがhanaの衰弱は激しく、心配した娘はかかりつけの動物病院の医師に往診を頼み、夜になって点滴をしてもらうほど危険な状態に陥っていたのだった。

友人の一人は奥さんとともに海外旅行中、大事に飼っていたネコが急死し、帰国するとネコは骨壺に入っていたという悲しい経験をしている。そのネコは14歳で、友人夫妻が出発するときは普段と変わらなかったが、2人がいない間に急死してしまったというのである。留守中の世話を頼んでいた息子さんと娘さんが異変に気付き、医者に連れて行ったが間に合わなかったのだという。子どもたちは旅の途中である友人らを気遣い、連絡することを控え、帰国後成田から東京へ向かう電車に乗っていた友人に初めて携帯電話でネコの死を伝えた。

友人は子どものようにかわいがっていたネコの死を奥さんにその場で伝えることができなかったが、家に帰って骨壺を見せてショックを与えることもできないと思い、東京駅の階段の踊り場でようやく悲しい事実を伝え、2人で泣いたそうだ。友人は奥さんに「あんたに飼ってもらえて、きっと○○は幸せだったと思うよ。○○にも感謝だね」などと言って奥さんを慰めたのだが、それは自分をも慰める言葉だったと私に教えてくれた。

幸い、hanaは私たちを待っていてくれた。旅の全行程を終え、7月11日に自宅に戻ると、hanaが玄関まで出迎えてくれたのである。しかし、いつもはキュンキュンと泣き、飛びついてくるのだが、それだけの元気はなく、尻尾を振るだけで声も出ない。そればかりかhanaは私たちの顔を見ると、安心したように居間の床に寝転んでしまった。hanaは頑張ってくれていたのである。

この日以降、私の日記には毎日のようにhanaが出てくる。

11日=10時前に自宅着。hanaはふだんに比べ喜びようが少ない。疲れ切っているのか。夕方、家族みんなではなの散歩。歩くのがやっとの状況にショックを受ける。

12日=hanaはふらふらしている。エサは交代で掌に載せて、ご飯をつぶしたものと缶詰1缶を4回に分ける。友人3人から激励のメール届く。

13日=朝、家族全員でhanaの散歩。表玄関から遊歩道まで約200メートル。夕方は妻と孫と3人で。

14日=大の排泄量は少なく、歩く距離も増えない。夜、食べたものを吐いてしまう。6日以来。

15日=庭で小をやり、遊歩道で大を終えると、hanaはもう歩けない。遊歩道と庭の段差があり、抱きかかえて家に戻る。

16日=暑さが和らぎ、hanaは少し元気になり、散歩の量も増える。といっても、全部で300メートルくらいだから、散歩とは言えない。

17日=少しずつ元気になりつつあるが、エサは残してしまう。

18日=病気になった後ご飯と缶詰を与えていたが、きょうからは、通常のドッグフードを欲しがるようになった。しかし、1日に食べる量はふだんの5分の1程度と少ない。

20日=立ち上がるのがつらいようで、なかなか歩けない状態だ。

21日=hanaの弱っているのを見ながら、散歩をするのはつらい。hanaは外でしか排泄をしないので、散歩は欠かせないのだが…。

22日=食べさせようと、ごはんや缶詰、ドッグフードを与えるが、首を横に振ってしまう。

23日=食欲はなく、短い距離でも休みながらしか歩けない。

24日=動物病院で点滴を受けさせる。長女一家も含め家族全員が診察室に入る。医師は「往診した時は危険な状態でした。それでもhanaちゃんは私が帰るときに起き上がって玄関まで歩いて見送ってくれたのですよ。よくここまで頑張りましたね。奇跡的です」と話していた。フィラリアの薬を与えるべきかどうかを聞くと、今はやめときましょうという返事だった。

25日=午前中は何も食べず、午後ソーメンとドッグフードを少し口に入れる。

26日=パンを少しだけ食べる。気晴らしにと車でドライブし、散歩をさせようとするが、ほとんど歩けない。抱きかかえて階段の上り下り。

27日=調子がよくない。エサ少々、散歩も排泄のみの状態。

28日=食べ物は受け付けない。水を時折飲む程度。夕方、病院で点滴。大きな注射器を使い、柔らかい缶詰のエサを口から入れてもらう。

29日=エサは全く受け付けず、排泄のため抱きかかえて外に出してやる。夕方、庭に戻るともう歩く元気はなく、すぐに座り込んでしまう。医師の指示でどろどろの缶詰を注射器で口に入れてやるが、1日で小さな缶詰を1缶半しか食べることができなかった。午後、珍しく居間の隣の和室に置いてあるhana用の布団に上がり、感触を楽しむような顔をする。布団は暑くていやなのか、最近は床で寝ている状態だった。

夜、長女一家とiPadのフェイスタイムを使い、テレビ電話。長女たちの呼びかけに、頭をあげて、画面に映る長女たちを見ていた。そのあと居間と台所の境まで行き、寝そべりながら妻が食事の後片付けをするのを見守っていた。健康なとき、夜はこうして炊飯器に残ったご飯をもらうのが楽しみだった。このところそうした光景はなかった。hanaは、このあと、この日食べたものを全部吐いてしまう。息も荒くなった。心配した次女が1階の居間に布団を運び込み、hanaのすぐ近くに寝ることにした。私たちは隣の和室にいた。(続く)

写真はhanaの朝夕の散歩コースにある調整池の真夏の風景

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