小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1198 カメラは特別な目 霧の朝の一断面

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3日は節分。歳時記には「立春の前日で、新暦2月3日ごろにあたる。もともと四季それぞれの分かれ目をいう語だが、現在は冬と春の境をいう」(角川学芸出版編)とあり、光の春がそこまで近づいている節目の一日なのだ。朝、自宅周辺は濃い霧に包まれた。外気が暖かく、手袋やマフラーを外して歩いても寒くはない。カメラを持って朝の散歩に出た。 随筆家で知られる物理学者の寺田寅彦はカメラが趣味の一つだったという。「カメラをさげて」という随筆(1931年)もあり、寅彦がカメラを持って東京の街々を歩いている様子が記されている。この随筆の中にこんなくだり(概略)がある。 「写真をとろうという気で町を歩いていると、今まで少しも気がつかずにいたいろいろの現象が急に目立って見えて来る。つまり写真機を持って歩くのは、生来持ち合わせている2つの目のほかにもう1つの別な新しい目を持って歩くということになるのである。この目は空間を平面に押しひしいでしまい、その上に平面の中にある特別な長方形の部分だけを切り抜いて、残る全部の大千世界(仏教用語で三千大千世界と同じ。巨大な宇宙空間をいう)を惜しげもなく捨ててしまう。実に乱暴にぜいたくな目である。私の場合は、何枚かのフィルムの中に1931年における日本文化の縮図を収めるつもりで歩くが、うまくはいかない。しかし、そのつもりでこの特別な目をぶらさげて歩いているだけでもかなり多くの発見をすることがある」 たしかに、寅彦が書くように、カメラを持って歩いていると、新しい発見がある。ふだんは何気なくやり過ごしてしまう場面でも、ふと立ち止まることがあるからだ。掲載した写真は節分の朝のそんな一断面だ。 霧で視界が悪い遊歩道。子どもたちが声を掛け合ってランニングをしていた。少し歩いた広場では10数人がラジオ体操をしており、周囲の街灯はついたままだ。近くの林の中から、犬の散歩の人が急に現れた。霧が幻想的な風景を演出した調整池の水面はかすかにしか見えず、いつもの鴨の姿は確認できない…。 寅彦の時代、フィルムはモノクロだった。だから、随筆の最後で「いちょうの黄葉は東京の名物である。しかし、いくらとっても写真にはあの美しさは出しようがない。そのいちょうも次第に落葉して、箒をたてたようなこずえに木枯らしがイオリアンハーブ(エオリアン・ハープのこと、弦楽器の一つで自然に吹く風により音を鳴らす)を奏でるのも遠くないであろう。そうなれば寒がりのカメラもしばらく冬眠期に入って来年の春の若芽のもえ立つころを待つことになるであろう」と、書いている。 冬は四季の中で一番色彩が地味な季節であり、カラー化された現代でも他の季節に比べると、カメラを持つ機会は少ない。しかし、明日は立春、わがカメラも冬眠から覚める季節がやってくる。 立ち込めた霧が惑わす朝の道
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