小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1164 一筋の道を行く 3人が歩む世界

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日本シリーズパリーグ楽天セリーグの巨人に勝って日本一になった。その原動力になったのは、田中将大投手であることは衆目の一致するところだ。日本球界を代表する投手に成長した田中の姿を見ていて、「一筋の道」を歩む他の2人のことを考えた。1人は11月3日に文化勲章を受章した俳優の高倉健であり、もう1人は「ミスターローズ」といわれたバラの育種家・鈴木省三である。田中や高倉に比べると知る人ぞ知る存在とはいえ、鈴木はバラ探究の道を真っ直ぐに歩み、日本のバラ開発と普及に大きな足跡を残した。 鈴木省三(2000年に86歳で死去)はどんな人なのか。バラに興味を持つ人はこの人の名前を聞いたことがあるかもしれないが、私はこれまでこの人のことは知らなかった。たまたま千葉県佐倉市立美術館で10月31日から今月10日までの日程で開催中の「~薔薇と生きて~鈴木省三の業績とこれから~」という記念展示をのぞいて、鈴木の人となりを知った。 鈴木は1913年5月23日、東京・小石川で生まれた。ちょうど今年で生誕100年になる。東京府立第6中(現在の東京都立新宿高校)を卒業後、東京府立園芸学校(同・東京都立園芸学校)で造園、育種学などを学んだ。このあと園芸業者のところで見習いをしているときに生涯の仕事となるバラと出会い、興味を持ったことがきっかけで1937年に「とどろきばらえん」(世田谷区奥沢)を開き、バラの生産と育種を始めた。現在の田中投手と同年配の24歳の時のことである。ちなみに高倉がデビューをしたのは1956年の「電光空手打ち」という映画で、当時25歳の初主演作品だった。 鈴木は戦後「とどろきばらえん」でバラの育種に力を入れ、さらに全国で開催されたバラの展示会に参加し次第にバラ研究者としてその存在が知られるようになる。京成電鉄の依頼で千葉県の谷津遊園のバラ園の造園にもかかわり、1959年に京成バラ園芸ができると、研究所の所長に就任、バラの香りや花色の研究に取り組んだ。最相葉月の「青いバラ」は、鈴木らの青いバラ開発の動きを追ったノンフィクション作品だ。 鈴木は世界中のバラの育種家と交流した。佐倉市立美術館の展示会でもそうした海外の人たちとの交流を示す資料や写真が展示されていた。1986年にニュージーランド南島のテムカに住むオールドローズの権威者でコレクターのトレヴァー・グリフィス氏を訪ねた際、地元の新聞が鈴木を取材、「ミスターローズ」と紹介記事を書いたことで、その後鈴木は「ミスターローズ」とも言われるようになったのだという。鈴木が京成バラ園で開発にかかわったバラは花弁が外側に反り返り、先が尖った形になる「剣弁高芯咲」といわれるバラを中心に100種以上にのぼり、このうち東京五輪にちなんだ「聖火」(1964年に発表、京成バラ園の第一号品種)は私の家の庭にも健在だ。 鈴木は生前「バラの博物館がない国は文化国家とはいえない」と語っていた。佐倉市の「草笛の丘バラ園」(原種やオールドローズを中心に1,050品種、2,500本のバラを植栽)はその遺志を継いだものだという。バラ園といえば札幌市の高台の伏見にあった「ちざきバラ園」が2009年に閉園した。札幌の観光名所として知られ、私も何度も行ったバラ園だけに寂しい限りである。 鈴木はバラ一筋の道を歩んで生涯を終えた。高倉健もまたひたむきに演技を続け、映画一筋の道を歩き続けている。日本一の投手に成長した田中は、大リーグで大男たちを相手に真っ向から勝負を挑む人生を選択するのだろうか。
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写真 1、わが家の庭に咲いたバラ「ほのか」(京成バラ園2003年作) 2、鈴木省三展のパンフ