小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1151 追悼・遠藤正芳さん 教育への思い遥か

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知人の遠藤正芳さんが8月初めに亡くなった。66年の生涯だった。もう少し早く、追悼のブログを載せたいと思っていたが、きょうになってしまった。穏やかな表情の遠藤さんを思い出しながら、このブログを書いている。以前、私は何度か遠藤さんにインタビューし、彼に関する記事3本を書いた。以下にそれを追悼の意味を込めて転載する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「元「民間校長」東南アジアの教育をサポート」学校に新しい風を入れようと、全国的に民間人校長が起用されつつある。鉄鋼の世界から三重県初の民間人校長に就任した遠藤正芳さん(60)は、4年間の校長としての任期を終え、この4月、アジアの途上国に学校建設の業務を進めるアジア教育友好協会(AEFA)の事務局長に転身、東南アジアの恵まれない子どもたちへの応援を始めた。遠藤さんを教育に駆り立てたものは何だったのだろうか。 2002年9月のことだ。遠藤さんは小さな新聞記事に目を止めた。三重県津市が市立南が丘小学校の校長を民間から公募しているという内容だった。当時遠藤さんは鉄鋼最大手の新日本製鐵から関連会社の役員として出向していた。海外に縁もあり、仕事に不満はなかった。しかし、新日鐵時代から多くの若者に接し「いまの教育は何をやっているのか」と疑問を抱いた。覇気がなく、仕事に対し明確なビジョンを持っていない。 こうした若者が小学校時代どのように過ごして来たかに興味を持った。小学生時代の夢は大きい。それを実現するために若者は目標を持って成長してきたはずだ。だが、若者がおかしい。それを解明するために子どもたちの世界に飛び込んでみるのも面白い。こう思った遠藤さんは、家族にも、職場にも内緒で校長職に応募した。一次試験は「小学校校長として何ができるか。自分のアピール」に関する論文。全国から約70人が応募し、遠藤さんを含む6人が一次試験をクリアした。 二次試験の個人面接・集団面接の結果、遠藤さんが合格した。他の5人からは「ご愁傷様」などの電話があったという。初めて校長への転身を打ち明けると、妻は「やればいいんじゃないの」と応援してくれた。しかし、出向先の上司は「苦労するだけだ。やめておけ」と、猛反対。数回の話し合いがつかず、社長に相談した。両親が教育者だったという社長は「行って来い」と、送り出してくれたのである。 03年春、三重に赴任した遠藤さんは子どもの感性、表現力を勉強するつもりで、校長室を開放した。それは07年3月末に退職するまで続いた。子どもたちは校長室にやってきて絵を描き、紙飛行機をつくって無心に遊ぶ。「この子たちがこのまま育ったら日本は心配ない」と思った。 校長を退職するに当たって、遠藤さんは海外と接点のあるボランティアをやろうと考え「海外とボランティア」をキーワードにインターネットを検索、AEFAを見つけたという。AEFAは東南アジアの山岳少数民族の学校を建設、日本の学校とフレンドシップ協定を結ぶ事業を行っており「こうした地域の子どもたちは教育を受けたいという熱い思いがある。一方、日本の恵まれた子どもたちには対極的に置かれた子ども達の現状を伝える事業の意義は大きい」と遠藤さん。「4年間の民間校長としての経験を生かして、何らかの形で役に立てたい」と、静かに語っている。 いま、各地で民間人校長が活躍をしている。確かに教育の現場に新風が吹き込んでいるのだろう。しかし校長という仕事は決して生半可ではできない。意気込んで就任したはずなのに志半ばで自殺したケースや任期途中で辞職したケースも散見される。それだけに重圧が大きいのだろうか。遠藤さんがいた会社の役員が校長への転身に反対したのも心労を心配したためだったのではないか。それは杞憂だった。小学校を離れたいまも、遠藤さんは子どもたちのことが忘れられないようだ。津時代を話す遠藤さんの表情は輝いているのである。(2007.6記) パナマの教育改革に協力 AEFAの遠藤さん」アジアの少数山岳民族の子どもたちの小学校を建設しているアジア教育友好協会(AEFA)の専務理事だった遠藤正芳さん(62)が、この1月から中南米パナマに移り住んだ。行政の見直しに取り組んでいるパナマ政府からの要請でパナマ教育省に在籍し、2年にわたって、パナマの教育改革に協力するという。 遠藤さんは、新日鐵勤務を経て、三重県津市の市立南が丘小学校の校長に応募、2003年4月から民間人校長として4年間勤務した。07年3月に定年退職した後、ベトナムラオスなど途上国に学校をつくるAEFAの事業に惹かれて、ボランティアとして活動を始めた。AEFAは、学校建設だけでなく、日本国内の学校とのフレンドシップ協定を結び、学校同士が国際交流する仲立ちも事業として行っており、遠藤さん自身もこうした交流校で「出前授業」をして、国際協力の重要さを訴えた。 遠藤さんの父親(2003年死去)が外交官だったことから、パナマ政府からの人材の派遣要請に外務省・JICA(国際協力機構)は、教育と建築の両分野で実績のある遠藤さんに白羽の矢を当てた。2009年10月初めから2ヵ月間缶詰でスペイン語を中心とする研修を受けた遠藤さんは、1月初めにパナマに向かった。留学した米国、発電所建設のマレーシア、超高層ビル建設の香港と、海外での生活は計10年に及ぶが、中南米は初めてだ。 遠藤さんは、パナマへの出発に当たって「日本の子どもたちにより広い世界を知らせるためにAEFAで取り組んできた。中米というスペイン語圏で、現地の子どもたちは何をどう学んでいるのかをこの目で見て、帰国後は出前授業などを通じて日本の子どもたちに、海外の子どもたちの『学び(学ぶ姿勢)』や『気付き(活動や体験の中から対象について感じとり、理解する、あるいは実感すること)』を伝えたい。これが私のライフワークだ」と、話した。 パナマ(共和国)は、北アメリカ大陸南アメリカ大陸の境に位置し、北西にコスタリカと南東にコロンビアに接する。北はカリブ海、南は太平洋に面し、双方を結ぶ「パナマ運河」で知られる。2009年5月、それまでのトリホス民主革命党政権に替わって民主変革党のマルティネリ氏が大統領に当選、貧困対策や治安の改善など行政改革を続けている。(2010年1月記) 「都市部・山間部100校を訪問 パナマの教育改革に取り組む遠藤さん」中米パナマの教育改革に協力するためことし1月から首都パナマ市に移り住んだアジア教育友好協会(AEFA)の専務理事、遠藤正芳さん(62)がこのほど一時帰国した。約9カ月のパナマ生活について、遠藤さんは「着任当初、受け入れ態勢がなく困惑したが、現場に足を運んで先生たちの話を聞くことからスタートした。訪問した学校は100校を超えた」と語った。23日にパナマに戻った遠藤さんは、2012年1月までの予定で、引き続き教育省のコーディネーターとして、「教育環境の改善」と「コミュニティスクールの実現」(地域住民が運営にかかわる学校)の課題に取り組む。   遠藤さんは、新日鐵勤務を経て三重県津市立南が丘小学校で4年間民間人校長を務め、2007年4月からベトナムラオスの山岳地帯で学校を建設しているAEFAに入り、ボランティア活動をしていた。昨年、教育改革を柱として掲げるパナマ政府が日本政府に対し、学校運営面についてアドバイスをする人材の派遣を要請、外務省・JICA(国際協力機構)は、その要員として遠藤さんを選んだ。 1月にパナマに入ったあと、2月に教育省に着任した。しかし前年の政権交代のあおりで同省は大臣以下局長、部長などほとんどの幹部が交代し、遠藤さんの採用を決めた責任者も異動してしまっていて、受け入れる準備は全くなく、ゼロからのスタートだった。それでも遠藤さんはあきらめず「まず学校をみよう」と思い立ち、若い職員とともに学校訪問を始めた。 パナマは東西600キロ、南北100キロの細長い国で、パナマ市はちょうど真ん中にある。学校訪問は日帰りで、校長らの話を聞いたあと授業を参観し、時には子どもたちと遊んだりする。片道300キロ、往復600キロの強行日程もこなし、訪問した学校は、都市部から山間部まで100校を超え、問題点が明確になってきた。都市部では教室が足りず、午前は小学生、昼から中学生、夕方から高校生が使うという3部制の学校が多い。山間部では学校自体が少なく、片道3―4時間かけて通学する子どもがおり、教師は平日教室か学校わきの粗末な小屋に泊まり込み、週末に帰宅する生活を送っているという。   パナマには全国で3500の小中校があるが、遠藤さんは今後も学校訪問を続ける一方で、教育省内で勉強会を開き、日本の学校運営の例を紹介しながら校舎の改築を含め、パナマの教育改革には何が必要かを提言したいと考えている。遠藤さんは今後の目標について「パナマの将来につながるよう若手の人材育成にも協力したい」と語っている。(2010年10月) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 遠藤さんは、私のブログ「小径を行く」の愛読者で、最近はフェイスブックを通じて頻繁に感想を寄せてくれた。それが途絶えたのは7月31日のことで、我が家の飼い犬のhanaが死んだことに対し慰めの言葉が書かれていた。遠藤さんのような、知性豊かな人が66歳という若さで亡くなったことが残念でならない。