小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1110 住む人がいない家に咲く桃の花 福島・飯舘・南相馬にて

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6年ぶりに福島県飯舘村に行った。正確には飯舘村を通過して南相馬市に行ったと書くべきか。春爛漫の季節を迎えた飯舘は不気味な静けさだった。花が咲き、緑に包まれた村の姿は牧歌的だ。原発事故さえなければ、いまごろはあちこちで田植え作業が進んでいたはずだが、荒れ果てた田んぼには雑草が茂っていた。(だれもいない飯舘の住宅の前には桃の花やスイセンが咲いていた) 初めて飯舘を訪れたのは、2007年の11月初めだった。木々の紅葉が始まった時期で、赤や黄に包まれた里山に心を打たれた。その時、「までい」という言葉がこの村で盛んに使われていることを知った。「ていねい」「じっくり」という意味の方言で食事、育児、仕事にもよく使われる。漢字で書くと「真手」という字になるらしいが、ひらがなで書くのが一般的と聞いた。 それまでの私の生き方は「までい」とは無縁だった。それだけにこの言葉がその後も頭から離れず、時折飯舘の自然を思い出しながら自分を戒めたものだ。その飯舘が原発事故のため、全域計画避難地域(年間の積算放射線量が20ミリシーベルトに達する恐れのある地域)に指定されたのは震災から1カ後の2011年4月11日で、当時、村には2193世帯6587人が住んでいたが、計画避難が始まったのはさらに1カ月後の5月15日だったから、その間多くの村民は浴びなくともいい放射性物質を浴び続けたのだ。 2012年6月、国は飯舘村計画的避難区域を見直しして、年間の積算放射線量を基準に「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰還困難区域」の3つの区域設定を発表した。村の広報によると、4月1日現在福島県外へ502人(291世帯)、県内へ6057人(2732世帯)が避難しており、飯舘に住んでいるのは101人(96世帯)だけである。目に見えない恐怖、不安が払拭されない限り、帰りたくとも帰れないのというのが避難した村民共通の思いだろう。避難した世帯では家族がバラバラになる分散避難も少なくないというから、この村の人たちのせつなさ、悔しさは計り知れない。 レンタカーを借りて、福島市から放射線量の高いホットスポットといわれる伊達市霊山を経て飯舘村に入り、1万7136人が市外に避難している南相馬に着いた。途中、伊達の峠からは冠雪した美しい山々が見え、峠を上りきってしばらく走ると飯舘のストーンマップ(村境などに12あるという)が目に入った。私の車の前にも後ろにも車の姿はない。道の両側は新緑の世界が広がり、時折、除染作業をしている人たちが目に入る。住む人のいない家の前では桃の花やスイセンタンポポが咲いている。 南相馬に入っても田植えの田園風景はない。多くは荒れ果てたままで、菜の花が咲いている田んぼもあった。 南相馬津波の被害と原発事故のダブルパンチに見舞われ、市民7万1561人中、自宅居住者は3万4957人だけで、市内に残った人たちも1万1073人が仮設や自宅以外に住んでいるという。(同市の3月21日現在の発表)そんな中で、市や民間が一体になって立ち上げた子どもたちに太陽光発電と農業を体験してもらう「南相馬ソーラー・アグリパーク」がオープンした。震災直後、南相馬市の窮状をYouTubeで世界に訴え、米タイム誌が2011年の「世界で最も影響力のある100人」に選んだ桜井勝延市長はこの式典で「全国からのこれまでの支援にお礼したい」と感謝の挨拶をしたが、今後も被災地への支援が必要なことは言うまでもないし、原発事故の傷が癒える日はいつになるのか見当もつかないのが現状だ。 この日の新聞(朝日)には、復興予算のうち1・2兆円が公益法人自治体が管理する「基金」に流され、さらに復興と関係の薄い被災地以外の事業に使われているという実態が報道されていた。昨年9月、NHKの特集でこの問題が報じられて以来、激しい批判が出ているにもかかわらず、役人たちの厚顔無恥ぶりが改まっていないことに暗然とした。東日本大震災からきょうで2年2カ月、まだ多くの人がわが家に帰ることができない現実があることを忘れてはならない。
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(農家の裏山でも除染作業が)
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(畑に積まれた除染後の土)
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伊達市からは冠雪の山々が見える)
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飯舘村役場)
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(ストーンマップの一つ)
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南相馬ソーラー・アグリパークの太陽光発電パネル)
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南相馬の田んぼに咲く菜の花) 飯舘に関するブログ 黛まどかさんの「歌垣」 までいの里よ いいたては「愛あふれる村」 「心に刻む応援のメッセージ」 美しい故郷を思う歌