小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1109 立夏は過ぎたが… 季節の変化の「小さな嵐」

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新緑の季節である。このころが一年で一番好きだという人が多いのではないか。ことしは連休後半のこどもの日の5日が「立夏」だった。 白井明大著「日本の七二候を楽しむ」には、「次第に夏めいてくるころのこと、あおあおとした緑、さわやかな風、気持ちいい五月晴れの季節です」とある。ところが、翌日の6日は北海道帯広市で雪が降り、宮崎県では30・2度という真夏日になるなど、この日本列島は「真冬と真夏が混在する」異常な天気の一日だった。 5日の端午の節句には菖蒲湯に入り、柏餅とちまきを食べるという古来の習慣を現代の日本人のどの程度が経験したか見当がつかない。私の子ども時代の数十年前なら、90%以上の人たちが菖蒲湯と柏餅のセットを楽しんだのではないかと思われる。 菖蒲は葉から香りが立ち、茎には保温と血行促進の効果があるという。柏餅に使われる柏の葉は新芽が出るまで葉が落ちないことから、家系が絶えない縁起物といわれた。そして、ちまきは中国戦国時代の詩人で政治家だった屈原に関する故事が由来だそうだ (屈原は中国・戦国時代の楚の忠臣で博覧強記の人といわれたが、政敵によって失脚し、5月5日に入水自殺した。屈原を慕う民衆が弔いの意味を込め、さらに魚が屈原の亡骸を食べて傷つけないようにと、魚に米の飯を食べさせる目的で命日の5月5日に笹の葉で包んだ米の飯を川に投げ入れたことが、端午の節句ちまきを食べるようになった習慣の始まりだそうだ) 私はことしも菖蒲湯に入り、柏餅を食べたが、これが平均的な日本人なのだろうか。いずれにしろ、この日が過ぎると初夏がやってくるという、季節の区切りを感じるのだ。 手元に友人の本間秀夫さんから届いた北海道の自然を紹介する「faurd」という季刊誌(3カ月毎に刊行)がある。近刊(2013年3月刊)の39号は「野の花・山の花特集」で、前回のブログで紹介した本間さん撮影の「オオバナノエンレイソウ」の写真が掲載されている。同じ39号には、東京から礼文島に移り住んだ植物写真家でエッセイストの杣田美野里さんの「野の花が好き」という連載がある。21回目となる今回、杣田さんは礼文島オオバナノエンレイソウについて書いている。 エッセーの中には、こんなくだりがあって印象に残った。杣田さんの感性が伝わる言葉である。 「オオバナノエンレイソウの咲くころには青紫のエゾエンゴサク蝦夷延胡索)や黄色のキバナノアマナ(黄花の甘菜)など早春の花が次々目覚めて、魔法使いが杖を振るったみたいに草原が色を変えていきます。そんな草原に佇む時、私の身の内には小さな嵐が芽生えます。今まさに幕が上がろうとしている花の季節への期待と、まだ冬からさめきらぬ五感へのいらだちが重なります。このざわざわとした感じは思春期に似ると思います」 夕焼けの下にひっそりとオバナノエンレイソウが咲く風衝草原の幻想的な写真には「5月を早春と呼ぶのはおかしいかもしれないが、礼文島の風衝草原の春は始まったばかり。5月22日 桃岩展望台」という説明があるから、写真は昨年かそれ以前に撮影したもののようだ。 立夏が過ぎたとはいえ、その翌日に雪が降った5月。礼文島の本格的春はまだ遠い。杣田さんの胸の中に「ざわざわとして小さな嵐が芽生える」季節は、すぐそこまでやってきて少し足踏みをしているのかもしれない。 立夏についての俳句  夏立つや衣桁(いかう)にかはる風の色 横井也有  (立夏のころは、また更衣の季節でもある。夏めいた薫風が、衣桁に脱ぎかけた夏衣をひらめかす。風の色がかわったと見えたのは、実は衣の色が変わったのである。山本健吉編、句歌歳時記夏より)=衣桁は衣服を掛ける家具のこと
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